1955年(昭和30年)1月、トヨタ自動車は豊田喜一郎が夢見た高級乗用車「クラウン」を発表、経済界から注目を集めた。そして同年5月、当時の通商産業省自動車課が国産自動車技術を前提とした「国民車育成要綱案」(通称:国民車構想)を発表し、国内自動車業界に新たな展開をもたらす。
日本自動車工業会に残る当時の資料によると、その「国民車構想」に記された車両概要は、乗車定員2~4名、最高時速100km/h以上、定地走行燃費30km/リッター、累積走行10万kmまで大規模修理の必要がない十分な耐久性を備えた乗用車で、3年後の1958年秋には生産開始できることが望ましい、という内容だった。
そして、この条件を満たすクルマを国産メーカーから募集し、試作⾞の試験により量産に適した1台を選んで、政府が資⾦を投⼊して育成を図るとの構想だった。
この国民車構想を以て自動車工業会は検討に乗り出すも、同年9⽉8⽇の理事会で「25万円程度の国⺠⾞の開発は不可能」という結論を出す。
そして、国民車構想は立ち消えになる。が、国産自動車メーカーは、この構想をキッカケにそれに近いクルマの開発に動き出す。メーカー各社は「政府が日本国民にも自家用自動車を所有させるべく、新たな政策を示した」と受けとめたのだ。
これを契機に、スバル360(1958年)、三菱500、マツダ360(1960年)などが開発された。
■国民車構想とは別に進んでいたトヨタ・パブリカ計画
トヨタが国民車構想とは関係なく開発を進め、1961年に発売した「PUBLICA」(パブリカ)も当該構想に影響を受けた小型車だ。初代モデルは1969年まで販売される長寿モデルで、トヨタのエントリーモデルとして、後のスターレット、ヴィッツ、そして現在のヤリスにつながる。
これらのモデルには、後に登場する“スポーツ”グレードが必ず存在する。
トヨタ・パブリカの企画は1954年にスタート。
冒頭で記した国民車構想が翌年発表され、1955年に開発計画が具体的に動く。「1A型」とされた小型車計画は、仏シトロエン「2CV」に倣った空冷2気筒エンジンで前輪駆動(FF)車だった。が、当時のトヨタの技術力では、国民車構想にもあった耐久性を達成できなかった。
そのため、開発後期の1959年に、ごく一般的な後輪固定軸の後輪駆動車(FR)としたクルマだ。
エンジンは当初500ccクラスを想定していたが、名神高速道路建設がすでに始まっており、連続100km/h走行を実現するため700ccクラスと決定した。
試作車は1960年10⽉、全⽇本⾃動⾞ショーに出展され、⾞名の公募を実施し、1961年6⽉に前述のとおり「パブリカ」のモデル名で発売した。
発売されたUP10型・初代パブリカは全長3520mm×全幅1415mm×全高1380mm、ホイールベース2130mmの極めてコンパクトなボディに、ボア×ストロークが78.0×73.0mmの特徴的な697cc空冷4サイクル水平対向2気筒OHVの「U型」エンジンを搭載、7.2の圧縮比から最高出力28ps/4300rpm、最大トルク5.4kg.m/2800rpmという出力&トルクを発揮していた。
組み合わせるトランスミッションはコラムシフト式4速マニュアル。1速以外のギアはシンクロメッシュ化された近代的なミッションだった。車重は580kgに抑えたことで、最高時速110km/hを達成したと記録に残る。
発売当時のパブリカ2ドアセダンの価格は38.9万円。この価格は軽自動車よりも低廉だった。このパブリカの発売と同時に、トヨタ自販は「トヨタ店」「トヨペット店」に次ぐ第3の販売チャネル「パブリカ店」を構築した。
この新販売チャネルは、その後の「カローラ店」として大チャネルに発展する。
■福沢幸雄とパブリカ・スポーツ
このパブリカ専売チャネルのために、派生車種が次々に投入される。1962年にはバン、トヨグライドと呼ぶオートマティック車。そして、1963年には、リクライニングシートやラジオ、クロームメッキモールで加飾した豪華なセダン「デラックス」を投入する。
同時に現在でも旧車ファンに人気のパブリカ・コンバーチブルが生まれた。
1966年に大規模なマイナーチェンジが実施され、800ccツインキャブレターを搭載し、45psとなった後期型UP20型に発展する。
1968年には同ツインキャブ・エンジン搭載のセダン「パブリカ・スポーツ」が発売される。このモデルには、後期型コンバーチブルと同じくレブカウンターやトリップメーター、油圧計などスポーティな装備が揃っていた。
このスポーツのTVCMや新聞広告、ポスターには、慶應義塾大学の創設者である福沢諭吉の曾孫、ファッションモデルでトヨタのワークスドライバーでもあった福沢幸雄が起用された。
幸雄は1969年にレーシングカー、トヨタ7のテスト中の事故でこの世を去る。
1963年に追加された、現在でも旧車ファンに人気のパブリカ・コンバーチブル
■トヨタ・スポーツの発端となる異色の「スポーツ800」
ところで話がやや前後するが、1962年と1964年の第11回東京モーターショーにトヨタは、「パブリカ・スポーツ」という、後の市販車と間違えそうなプロトタイプを展示していた。
ライトウェイトスポーツを指向した2座の小さなスポーツカーだった。
そして、翌1965年3月、そのプロトタイプはデビューする。後に「ヨタハチ」の愛称で親しまれる正式名称「トヨタ・スポーツ800」であり、発表の翌月の4月から完売された。
時代はまさに日本のモータースポーツの幕開けとなる第1回日本グランプリが1963年に鈴鹿サーキットで開催。そして日本初のハイウェイである名神高速道路が開通。本格的な高速時代が到来していた。
まだ日本のモータリゼーションは見軸とはいえ、ダットサン・フェアレディ1500やホンダS500/600などのスポーツカー、いすゞ自動車のベレット1600GT、プリンス・スカイライン2000GTといったGTカーが登場し始めていた。
登場した“ヨタハチ”ことトヨタスポーツ800も、そんな時期にデビューした。 脱着可能なタルガトップ風のルーフを持ち、1台でオープンとクローズドクーペの双方が楽しめるヨタハチは完成度が高く、愛嬌のあるスタイルをしていたが、それはユニークなコンセプトを体現した結果だった。
当時の日本で、いや現在でもスポーツカーといえば、まずは「強力なエンジンを搭載」というのが相場だ。しかしながら、ヨタハチのパワーユニットは、トヨタ初の大衆車であるパブリカ用の2気筒を少々チューンした800ccの空冷フラットツインだった。
それを空力特性に優れた軽量コンパクトなボディに積み、軽快なハンドリングを実現したのだ。
その搭載された2U-B型エンジンは、790cc空冷水平対向2気筒OHV。2基のキャブをして最高出力は45ps/5400rpm、最大トルクは6.8kg.m/3800rpmを発揮。トランスミッションはパブリカと同じ4速マニュアルだが、フロアシフトだった。
それを全長×全幅×全高3610×1465×1175mm、ホイールベース2000mm、580kgという軽量コンパクトなボディに載せたのだ。このディメンションを軽自動車法規制枠である全長×全幅3400×1480mm以下とされる規定と比べられたし。全長は少しだけ長いが、ほぼ現在の軽自動車に匹敵する寸法なのである。
シャシー回りもフロントがダブルウィッシュボーン、リヤがリーフ固定軸のサスペンションなど、基本的にパブリカを継承してコストを抑えた。しかし、0-400mを18.4秒で駆け抜け、最高速は155km/hと、当時としては破格の性能をカタログに記載していた。この軽量&コンパクト、そして優れた空力特性、燃費の良さが、ヨタハチの尊骨頂だった。
ただ“ヨタハチ”は、その後続々と登場するトヨタ製DOHC軍団「TOYOTA Sport」と云われる歴代モデルは異なる、異端のスポーツモデルだった。
トヨタ・スポーツ800は、スポーツカーの楽しさが、絶対的な出力&トルクの多寡や、高度なメカニズムが持つポテンシャルだけで判断できないことを教えてくれた小さなスポーツカーである。──敬称略──
1966年4月から完売された「トヨタ・スポーツ800」、790cc空冷水平対向2気筒OHV・2U-B型エンジンは、2基のキャブを装着して最高出力は45ps/5400rpm、最大トルクは6.8kg.m/3800rpmを発揮。580kg の軽量なボディを最高速155km/hに導いた