日本経済がバブル景気に踊っていた1989年5月22日、日産のハイソカーとも云われ、稼ぎ頭だったスカイラインが8代目に移行した。そして、3カ月後の8月21日、KBGC110型(通称ケンメリGT-R)以来16年を経てスカイラインにGT-Rが復活する。通称R32型と呼ばれるBNR32型スカイラインGT-Rである。
スカイラインGT-Rの初代PGC110型モデルは、1968年10月26日に開幕した第15回東京モーターショーで「R380のエンジンを搭載したスカイラインGT」として日産ブースに飾られ、人々の熱い視線を浴びたクルマだ。
その通称「ハコスカ」と呼ばれた「PGC110型/KPGC110型」スカイラインGT-Rに搭載したエンジンは、R380の直列6気筒DOHC24バルブと同じボア×ストロークの82.0×62.8mm、1989ccのキャパシティから、最高出力160ps/7000rpm、18.0kg.m/6800rpmの高出力&大トルクを発揮する本格派スポーツユニット「S20型」だった。
当時の日産はトヨタと異なり、フェアレディなどのスポーツカーはともかく、パワーユニットに関する限り、それまでDOHCユニットなどつくったことはない。S20型はレースの現場で数々の勝利を収め、日産に吸収合併される前の“旧プリンス”の技術力をアピールする広告塔の役割を果たした。
スカイラインGTは日産のなかで連綿と生き続け、バブル景気前夜の1985年に7代目が誕生するも、折からのトヨタ・マークⅡ軍団の「ハイソカーブーム」に煽られた恰好で豪華な大型化する。その「ハイソカー」路線に往年のスカGファンは猛反発した。
■復活したGT-R、BNR32型が静かな咆哮を放つ
1989年にスカイラインは8代目となり、引き締まったボディに生まれ変わる。そして、16年ぶりにGT-Rも復活する。デビューしたBNR32型GT-Rの搭載エンジンは、このクルマのために専用設計したRB26DETT型エンジンで、ボア×ストローク86.0×73.7mm・2568ccのキャパシティを持った直列6気筒DOHC24バルブ・ツインターボユニットだ。ターボチャージャーはギャレット製T3型を2基組み合わせ、そこに空冷式インタークーラーや6連式スロットルチャンバーを採用。国内最強の最高出力280ps/6800rpm、最大トルク36.0kg.m/4400rpmというアウトプットで登場した。
組み合わせたトランスミッションは5速マニュアル。駆動方式は極めて凝ったシステムで、R32型GT-Rのハイライトのひとつである「ATTESA E-TS」と呼んだハイテク電子デバイスシステムだ。このトルクスプリット式4WDは、ふだん後輪駆動で走行し素直なハンドリング特性を持つが、大パワーを後輪に与えてテールスライドに移行しはじめる前に前輪にトルクを与えて姿勢を回復させるというアクティブな4輪駆動システムだった。前後のトルク配分は0:100のRWDから50:50のAWDまで自動的に変化する。
さらに、4輪マルチリンク式独立としたサスペンションの後輪側にも操舵システム「Super HICAS(スーパーハイキャス)」を組み合わせ、エンジン性能を存分に引き出せるセッティングとなっていた。
スタイリングでもR32型GT-Rは、ファンを惹きつけた。ふつうのスカイラインGTクーペから変わったのは、大きく張り出したブリスターフェンダーや大型リアウイングスポイラー、アルミ製ボンネットフードとフロントフェンダーなどのほか、フロントバンパーの奥に大型のインタークーラーが覗く。そのルックスは、そのままツーリングカーレース・マシーンのそれで、その迫力は当時の国産スポーティモデルのなかで群を抜いた存在だった。
このR32型GT-Rは前後ブリスターフェンダーの装着によって車幅が拡がり3ナンバーサイズとなったものの、ボディのスリーサイズは全長×全幅×全高4545×1755×1340mm、ホイールベース2615mmと現在の水準からすると極めてコンパクトなボディを持っていた。また、高度に制御されたDOHCターボエンジン、複雑な駆動方式などを詰め込みながら、その車重は1.5トンを大きく下回る1430kgに抑えられた。これは、前述のフロントフェンダーやボンネットをアルミニウム製としたことなどで軽量化した成果だ。
モノフォルムのGT-R専用バケットシートに身体を収めると、普通のスカイラインGTと変わらない高級なGTカーの雰囲気に安堵する。エンジン音にもスーパーマシンの咆哮などと云ったものでは無く、ごく普通のクルマと変わらない。クラッチペダルも呆気ないほど軽い。が、ただひとつ違うのは、コーナーを軽く攻めただけでも、フロントトルク・メーターの針が前輪へのトルクのかかり具合をドライバーに伝えることだった。
なお、1990年にグループA参戦マシンのホモロゲーション用モデルとして500台限定の「R32・GT-R NISMO」が発売され即完売する。その年に参戦したデビュー戦で、フォード・エスコートらのライバルを3ラップも置き去りにして優勝を遂げ、その後も年間を通してスカイラインGT-Rの強さを印象づけた。ここから再び「GT-R伝説」がスタートするわけだ。
レースにおける強さの秘密は、市販車では自主規制値の280psに抑え込まれたエンジンだが、レース参戦車両では、エンジン本体に手を加えなくともおよそ400ps程度まで出力アップできる構造で、更なるチューンで約600psまで引き上げたチューニングカーも現れた。また、その大出力を許容する駆動システム「ATTESA E-TS」の堅牢性もレースの現場で証明された。
その後、1992年2月のマイナーチェンジ時の際に、弱点とされたストッピングパワーを強化する。標準車のフロントブレーキローター径296mmに対して324mm、リアブレーキローター径297mmに対して300mmにそれぞれ大径化したブレンボ製ベンチレーテッドディスクに225/50R17インチタイヤ+BBS製鍛造ホイールを装備した上位モデル「Vスペック」「VスペックⅡ」などを追加しながら1995年にR33型にモデルチェンジするまで4万3661台が生産された。BNR32型は「スカイラインGT-R」として、もっとも売れた量販モデルとなる。
しかし、この世代の8代目スカイラインは、GT-Rにだけ注目が集まり、その前世代のハイソカーを模倣したR31型の販売にトータルではおよばなかった。ハコのスーパースポーツであるBNR32型GT-Rが招いた“スカイラインの不幸”なのである。