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1980年代後半、日産に咲いたバブルの“あだ花”、マーチに居並ぶ「パイクカー3弟妹」

1980年代前半、日本や欧州などから自動車を含めた対米製品輸出が急伸し、米国経済は莫大な赤字を抱え、日本や欧州各国などが大幅な貿易黒字を記録。これを是正する目的で、1985年9月のG5蔵相・中央銀行総裁会議で決議した「プラザ合意」によってドル安に誘導する国際的な協調体勢がとられた。結果、日本は急激な円高に見舞われる。これが日本の輸出産業に大打撃を与えた。バブル前夜に日本経済を襲った「円高不況」だ。

 そこで日銀は景気対策として分かりやすい金融緩和を断行する。1986年、大幅な公定歩合引き下げに動いた。そのため、国内では不動産や株式に対する投機が進んだ。プラザ合意から2年足らずで日本の地価は倍以上に高騰し、円高不況時に1万2,000円ほどだった平均株価は 2万6,000円を超えた。株価はブラックマンデーを乗り越えて1990年に株価3万8957.44円の最高値を記録する。これが世に言う「バブル景気」である。

 こんな混沌と言える時代に登場した奇妙なクルマが、1985年11月の東京モーターショーに参考出品された日産「Be-1」だ。そして、86年1月に限定で1万台生産することを正式に決定。ショーモデルを忠実に再現したそのクルマは、わずか2カ月ほどで受注は埋まった。「Be-1」は、バブル景気只中に走り出した小さな自動車である。

 それまで日本では、1978年に東急ハンズ渋谷店がオープン。1981年に同じく渋谷にパルコ・パートⅢ、六本木にAXISがオープンしていた。いずれも若いファッション感覚と遊び心に溢れた雑貨感覚を大切にした商材であり、それらを取り扱う商業施設だった。それが80年代半ばに、渋谷西武のSEED館、LOFT館が加わり、さらにお洒落な雑貨を求める消費傾向が顕著化した。「Be-1」は、それがクルマという商品にも及んだ一つの例だ。

 Be-1の魅力は、その内外装のデザインが醸し出す雰囲気にあり、クルマをファッションアイテムの一部、ブランドとして訴求できたのだ。Be-1は、1982年に登場した日産の小型車K10型初代「マーチ」のシャシーを使ったクルマで、技術面ではまったく新しい要素はない凡庸なクルマだ。

 しかし、デザインが秀逸だった。Be-1は、ファッション業界からコンセプターに坂井直樹を招きプランニング。レトロともいえる丸くて小さなデザインが最大の特徴のパイクカーだ。ネーミングは、スタディモデル案、A案・B-1案・B-2案・B-3案の4つのモデルのなかの「B案のNo.1」から採った。

 このBe-1は、それまでの自動車が追及してきた絶対的な動力性能やパッケージングの実用性などの追及とは別のベクトル、既成価値へのアンチテーゼともいえる方向性を指し示したクルマだった。

■ひととおりの諸元、そして青山の「Be-1ショップ」

 Be-1の諸元にも簡単に触れておくと、ボディは2ドアの2ボックスカー。ボディサイズはベースとなった初代マーチとほぼ同じ、全長×全幅×全高3,635×1,580×1,395mm、ホイールベース2,300mm。

 搭載エンジンは987cc直列4気筒OHCで、最高出力52ps/6,000rom、最大トルク7.6kg.m/3,600rpm。トランスミッションは5速マニュアルと3速オートマティックを用意。

 車両を支えるサスペンションは前マクファーソン・ストラット式、後4リンクコイル式固定軸だ。車重は670~710kgとなっていた。ボディカラーはパンプキンイエローほか計4色。東京地区標準価格は129.3万円~144.8万円だった。

 日産はBe-1発売とほぼ同時に、アパレル製品や雑貨をセレクトしたコンセプトショップClub 246「Be-1 SHOP」を東京・青山に開設した。店内にはBe-1のイラストやロゴが入ったオリジナル雑貨のほか、Tシャツなどのコットンアパレルやカジュアルウェアなどを展開した。ショップのテーマ「快適な空間を志向するナチュラルな心地よさ」を追及した空間だった。そこは小規模ながらファッションショーなど数々のイベントを開催する多目的スペースでもあった。

■2匹目のドジョウ「PAO」と3匹目の「FIGARO」

 日産はBe-1の成功を受けて「2匹目のドジョウ」を狙う。1987年の第27回東京モーターショーに出品したパイクカー第2弾「PAO」を89年1月に市販化する。

 先例Be-1と同様に限定車という受注方式を採用したが、台数を限定して混乱を招いたBe-1の経験から、予約期間だけを設ける方式が採られた。つまり予約期間に受注したクルマを生産するという方式だ。

 レトロ路線をさらに追及した外観は、ドアのアウターヒンジやリブの入ったドアパネル、跳ね上げ式リアウインドウなどで懐古的な雰囲気を演出した。クルマとしての成り立ちは。Be-1とまったく同じだが、違いはステアリングがパワーアシスト付きになったこと。価格は5速MT車が138.5万円、3速AT車が144.0万円で、キャンバストップ仕様が10万円アップで選択できた。

 「メカニズムに何の新しさも無く、アウタースキンだけを換えた、レトロ路線だけのクルマ」という酷評も多かったが、空前のバブル景気に乗って、たった3カ月の受注で4万2000台を売る大ヒットとなった。

 1991年2月には、日産から「3匹目のドジョウ」を狙ったパイクカー第3弾「FIGARO」が登場する。

 Be-1、PAOに次ぐ初代マーチ・ベースのパイクカー第3弾は、1989年の東京モーターショーで参考出品された「FIGARO」(フィガロ)だ。レトロ調にデザインされ、本革シートを備えた小型の上品な4座オープンだった。

 K10型初代マーチをベースとしたパイクカーシリーズのなかでは唯一、ターボエンジンを搭載したモデルであり、搭載した987cc直列4気筒ターボエンジンの最高出力は76ps/6,000rpm、最大トルクは10.8kg.m/4,400rpmだった。トランスミッションは3速オートマティックのみの設定である。

 白い本革シートや白いインテリアの特別感漂うフィガロは、1991年2月14日に限定2万台で発売され、同年8月末までに3回に分けて抽選するという販売方式がとられた。しかも、日産の目論見があたり、またしてもヒット作となる。

 日産が世に送りだしたパイクカー3台は、性能云々ではなく、「限定車」という記号性とファッション性のアピールが奏功して売れた。

 しかし、日産はパイクカーの少量生産で出来た、新しい試み、せっかくの“芽”をその後の商品戦略に活かせず、日産パイクカーは一過性のあだ花で終わった。バブル崩壊後の90年代後半に日産は経営難に陥って、仏ルノーの支援を仰ぐ。そしてコストカッター、カルロス・ゴーンの独裁体制が敷かれる。

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