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第0章 プロローグ 前史──国産車3大メーカーの一角

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 先オ太平洋大戦の前、1930年代には、いすゞ自動車はトラック&バスを製造する大型車専業メーカーだった。自動車会社として、トヨタ自動車、日産自動車と並ぶ“国内3大メーカー”の一角を占める自動車製造企業で、3社のなかでも屈指の長い歴史を持つメーカーだ。

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 いすゞ自動車の前身をたどると、祖となる1社とされる東京石川島造船所(石川島播磨重工業を経て現在のIHIとなる)自動車部が、1918年に英国Wolseley(ウーズレー)社とライセンス提携を結んで、1922年に「ウーズレーA9型」と呼ばれた乗用車を生産した記録が残っている。同時に積載1.5トンクラスのウーズレーCP型トラックを生産、軍用保護自動車の認可を取得した。その後、提携を解消して国産トラック&バス生産として車名を「スミダ」に改称、「スミダP型トラック」や「スミダM型-1バス」を製造した。

 余談だが車名「スミダ」の由来は、「石川島」が“隅田”川河口の佃島の隣にあった島だったことにある。その後、埋め立てが進んで佃島の一部となり、現在は佃2丁目が石川島だったエリアだ。ここに江戸時代、水戸藩が洋式造船所を建設し、それが東京石川島造船所として発展した。戦後の高度成長期を経て、石川島播磨重工業は豊洲に移転し、跡地は三井不動産などのジョイント企業が、バブル経済期に着工したウオーターフロント開発を代表するタワーマンション群の街「大川端リバーシティ21」となり、2010年に最後のオフィスビルが出来上がり、街は完全竣工した。

複雑な企業の合従連衡で誕生した「自動車工業株式会社」

 話は自動車製造会社に戻る。先に述べた大戦前夜の逼迫した状況下、政府の方針で当時の有力な自動車製造社の統合が進められた。1933年(昭和8年)、石川島造船自動車部から独立していた石川島自動車製造所とダット自動車が合併して社名「自動車工業株式会社」が生まれ、その自動車工業の小型自動車部門は「ダットサン」の商標と共に、戸畑鋳物の代表・鮎川義介が率いる後の日産自動車となる。つまり、自動車工業株式会社は、石川島自動車にダット自動車のトラック&バス製造部門が合流した組織と思えばよい。

 合併後の自動車工業は、自動車用ディーゼルエンジンが当時世界的にみても商品化されたばかりの新技術であることに着目、国際水準に早期に達する技術分野として、その基礎研究および開発を行なう。これが現在までに至る「ディーゼルのいすゞ」の礎となった。

 その自動車工業と東京瓦斯電気工業との合併によって、1937年(昭和12年)4月9日に東京自動車工業が誕生。これが、いすゞ自動車の母体となったとされる。いすゞ自動車では、4月9日を創立記念日と定めている。

同門の日野を分離・別会社化

 日中戦争が勃発した1941年(昭和16年)に、屋号をヂーゼル自動車工業に改称。ヂーゼル自動車工業から日野製造所を分離し、日野重工業(現在の日野自動車)を設立する。つまり、現在の国産大型商用車メーカーのふたつの企業、将来のいすゞ自動車と日野自動車は同門なのだ。しかし、石川島を源流とする後のいすゞ自動車と異なり、日野自動車は旧東京瓦斯電気工業系の技術陣が主体の組織であり、ここを発祥としている。

 ポツダム宣言を日本が受諾して1945年8月に終戦を迎える。日本が復興を目指す戦後、ヂーゼル自動車工業はトラックなどの大型車の開発を進め、1947年秋、「TX61型ディーゼルトラック」を、翌1948年「BX91型ディーゼルバス」を完成させるなどし、1949年に社名を、遂に「いすゞ自動車」に改称した。

 そして、大胆な経営戦略の転換を指し示す。乗用車生産へ進出するという決定を下したのだ。

 戦後、復興期の国産自動車メーカーの多くは、戦争で大きく遅れた自動車、なかでも乗用車生産技術の獲得と復興を目論んで、あくまで純国産を志向したトヨタ自動車を除いて、海外の有力企業との提携に活路を見出そうと動いた。1952年(昭和27年)に日産は英オースチン社、翌年には日野は仏ルノーと、そしていすゞは英ルーツグループのヒルマンと提携する。その結果、トヨタは純国産で、日産、いすゞ、日野の3社が海外との提携で戦後の乗用車生産をリードしていくこととなる。

Hillman Minx by ISUZU

 いすゞが生産する「ヒルマン・ミンクス」(Hillman Minx)は1953年(昭和28年)10月26日に大森工場で第1号車がラインオフしたと記録に残る。提携そのものの認可が1953年2月なので、僅かに8カ月で完成車をつくりあげたわけだ。国産化を目指したものの第1号車は、バッテリーとタイヤが国産品なだけで、あとはすべて英国から供給されたパーツを組み合わせつくった、まさしく“コンプリート・ノックダウン”生産だった。

 いすゞが生産したクルマは本国でPH10型「ヒルマン・ミンクスMk-Ⅵ」と呼ばれたモデルだった。37.5psを発揮する1265cc・直列4気筒サイドバルブエンジンを積んだ定員4名の小型セダンだ。その全長×全幅×全高は4000×1575×1524mm、ホイールベース2362mm。車重956kg。最終的にはいすゞによって完全国産化を目指してつくられたクルマだが、毎年のようにマイナーチェンジを繰り返し、いすゞもそれを追いかけながら乗用車生産ノウハウを蓄積しながら、1956年(昭和31年)にモデルチェンジして2世代目のPH100型にスイッチする。

 新たにデビューしたPH100型「ヒルマン・ミンクスMk-Ⅷ」は、小さなテールフィンがついたお洒落なセダンに変身した。ボディは全長×全幅×全高4140×1555×1510mm、ホイールベース2438mm、車重1065kgと大型化し、定員は6名となった。サスペンションは前ダブルウィッシュボーン式独立懸架、後リーフスプリングによるリジッドだ。搭載エンジンはボア×ストローク79.0×76.2mmの1494ccに拡大した4気筒OHVに進化、64ps/4600rpm、11.2kg.m/2600rpmを発揮した。なお、日本サイド、つまりいすゞの生産技術進歩は目覚ましいものがあり、1957年には文字どおりボルト1本まで国内で生産するまさに100%国産化に成功。1960年型では本国のバージョンを上回るエンジンパワーを発揮するに至ったとされる。

 いすゞ製のヒルマン・ミンクスは2世代にわたって1964年(昭和39年)まで生産され、累計6万7729台が生産された。いすゞ自動車はいよいよ、完全オリジナルの乗用車企画に乗り出す。──敬称略──

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