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第1章 ニッサンスポーツの祖、「DATSUN Sport DC-3」     戦後初の国産スポーツカーとオースチンのノックダウン、DATSUN

 1945年8月15日、太平洋戦争を全面降伏・敗戦という形で終えた日本は、連合軍の実質的な中核となる米軍が主導するGHQの監理下に置かれる。日本の最新鋭工学の粋が終結していた航空機産業は解体され、軍需産業の一翼を担っていた自動車会社もトラック生産のみが許される時代になった。

 1935年(昭和10年)、横浜に近代的な新工場を建設して本格的な自動車大量生産方式の導入を図っていた日産自動車も同じで、戦後すぐの1945年秋には、敗戦復興に必須となるトラックの生産を始めていた。

■「DA型」から始まる、トラックから乗用セダンへ

 1947年には乗用車の生産が。わずかであるがGHQに許可され、11月にDA型ダットサンセダンを生産した。これはCS2型トラックのシャシーに京浜地域にあった5社ほどが車体を製作して組み立て架装したクルマだ。ボディ寸法は全長×全幅×全高3160×1330×1570mm、ホイールベース2005mmの前開き2ドアの4人乗りで、エンジンは7型と呼ぶ722ccの15psだった。

 次いで、翌1948年3月にDA型の進化版となる全長×全幅×全高3500×1340×1570mmのDB型デラックスセダンを発表、1949年1月に発売となった。さらに1950年9月、DB-2型へと、矢継ぎ早に新型車へ切り替えられ、1953年2月には車体構造が大きく変更された前ヒンジ4ドアセダンのDB-5型、全長×全幅×全高3805×1480×1560mm、1954年のDS-6型コンパーセダン、全長×全幅×全高3825×1462×1518mmで、以後のダットサンセダンを思わせるクルマへと発展する。

■まだ戦後、流布する「国産乗用車無用論」

 しかし戦後の自動車業界の状況を冷静に見た経済学識者のなかには、「日本に自動車産業、なかんずく乗用車生産企業を育成するのは無意味だ。国際分業という経済原理に則って、乗用車の生産および日本市場への供給は欧米メーカーに任せればよい」とする主張がメジャーにマスコミに流れ、そしてそれが真理であるかのように語られた。

 国産車メーカーはこの時期、このような「無用論」と闘いながら、産業としての有用性を実証しなければならなかった。その後、海外製自動車の国内での取引がゆっくりではあるが、規制が緩和され、1953年には輸入台数が1万8637台となり、国内メーカー生産・販売台数の約2倍強にまで膨らんだ。国内自動車各社に危機感が蔓延する。

 先の大戦の影響で進められなかった自動車技術開発、その空白は日本自動車業界にとって大きな痛手だった。国産乗用車生産を再開しても欧米との差は歴然としていた。車両の価格にしても、日産がDC-3スポーツを発表した当時、輸入車には4割の関税がかけられていた。それでもなお、ダットサン・セダンよりも欧州製の小型車の方が安かった。しかも、性能面では比肩にならないありさまだった。

 そんな危機感のなかでも、日本経済の自立・発展には乗用車生産は必要であるとする通商産業省は、業界にヒヤリングを行ない、国産メーカー支援策を固めていった。そして、欧米の技術水準や生産設備に短期間で追いつくために、海外メーカーとの技術提携を促進する。通産相「乗用車外資導入基本方針」である。

■英オースチン社と提携、サマーセットサルーンを生産開始

 そのころ日産も戦前からのダットサンの改良・ブラッシュアップに行き詰まりを感じ始めており、1952年12月に日産は英国オースチン(AUSTIN)社と提携契約を結ぶ。

 オースチンはダットサンよりもやや大きいものの、米国車とは比較にならないほどコンパクトで、技術的にも欧州ナンバーワンと評価されるメーカーだった。

 そして日産は、オースチンA40サマーセットサルーンを年間2000台、ノックダウン生産する契約を結んだ。当初、部品・パーツは輸入するが、3年後を目標に国産化するとして、自製した部品は日産生産車に流用も可能な契約内容だった。

 オースチンA40サマーセットサルーンのボディサイズは全長×全幅×全高4050×1600×1630mm、ホイールベース2350mm。42psの1197cc・4気筒OHVエンジンを搭載、3速マニュアルミッションを介して後輪を駆動し、最高速度109km/hをマークしていた。

 国産各車はこの日産の動きを睨み、1953年春になって、日野自動車がルノー4CVを、いすゞ自動車がヒルマン・ミンクスを、秋に新三菱がウィリース・ジープとの技術提携を実施する。日産は、早くもその年の4月に、A40に第1号車をラインオフした。

■国産初のスポーツカー、DC-3型「ダットサン・スポーツ」登場

 そんな乗用車開発の途上、1952年7月に画期的な純国産のクルマが日産から登場した。同社のトラック(CS-5型)シャシーを流用し、その車台にオープンボディが載った4座コンバーチブル、DC-3型「ダットサン・スポーツ」だ。独立したフロントフェンダーやコントラストが効いた2トーンカラーのボディは、当時の英国製小型オープンスポーツの雰囲気が漂い、トラッディショナルなスポーツカーの香りを感じさせた。幌を降ろして、さらにフロントスクリーンを前に倒して、JEEPのようなフルオープン・ドライブが可能だった。

 DC-3型のボディ寸法は全長×全幅×全高3510×1360×1450mm、ホイールベース2150mmと非常にコンパクト、車重750kgと軽量でもあった。サスペンションは前後ともリーフスプリングに吊られたリジッド。搭載エンジンは1950年発売のDB2型セダンから移植したD10型・860cc・直列4気筒サイドバルブ・ユニットで、最高出力20ps/3600rpm、最大トルク4.9kg.m/2000rpmを発揮した。3速マニュアルとの組み合わせから、このクルマを最高時速80km/hに導いたと伝わる。特段、メカニズムに注目すべきポイントは無い旧式な車ではあったが、国産初のスポーツモデルと云えるエポックメイキングなコンセプトのクルマだった。

 DC-3型オープンスポーツは、決して成功したモデルではない。乗用車生産がまだ模索状態で、海外企業との技術提携とは別のアプローチを示しただけかも知れない。

 わずかに50台ほどが販売されたDC-3型は、しかし、以降1960年代のニッサンスポーツ、フェアレディなどの祖となるオープンスポーツだったのだ。

 ダットサンDC-3型の後、日産は前述のようにオースチン車のノックダウン生産に忙殺され、スポーツカーの流れは一時途絶える。が、オースチン生産で学んだ日産は、その後に“幸せをもたらす青い鳥・ブルーバード”の原型となる、まったく新しいダットサン110型など、型式番号が3ケタの新型製品開発に成功する。

 1958年、東京・後楽園で開催された全日本自動車ショウで日産は、ダットサンスポーツS211型を発表する。

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