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第2章 SUBARU360を考案しゼロから作った男、百瀬晋六 そして「機械遺産」

 富士重「K-10」の開発経緯は前項に詳しいが、中島飛行機が持っていた航空機体の設計・製作技術があったが故に「SUBARU 360」と名付けられヒットした、小さく軽量で高剛性を持つボディを完成させた「テントウ虫」開発を主導した技師が百瀬晋六である。

 ところで富士重がK-10の開発を始める以前、通産省(現・経産省)の国民車構想要綱が表面化する4年前の1951年(昭和26年)、富士重系列で乗用車の試作がはじまっていた。実際に数台が群馬県のハイヤー会社で使われ、前項でも簡単にふれた“幻のクルマ”「P-1」だ。合併して富士重工業が生まれる前の旧中島飛行機・系列各社が協働で乗用車「スバル1500」をつくるという企画だった。

 百瀬晋六は当時、モノコックボディのバスを製造してある程度の成功を収めていた伊勢崎製作所の技術部第二設計課長で、P-1車体全般の設計を命ぜられる。ところが開発にあたり自動車工学の文献はなかなか手に入らない。百瀬ら開発陣は東京中を探し回り、見つけた。日比谷の駐留米軍関係者および家族のための施設、アメリカンセンターにあったCIE図書館で、自動車関連の豊富な書籍、雑誌などを発見するのだ。

 百瀬らは会社に予算10万円を貰い、写真屋を雇って必要な文献を複写した。引き伸ばした紙焼きを重ねると30センチにまで積み上がったと記録に残る。

 その後、プロジェクト「P-1」は、急速に具体化する。富士精密(後のプリンス自動車)が持ち込んだ「FG4A型」エンジンは1.5リッターのキャパシティから48psを発揮。プジョー202を参考にしたパワーユニットの性能は安定した性能を発揮していた。ボディサイズは当時の小型車規格一杯のサイズで、1955年に登場する初代トヨペット・クラウン(全長×全幅×全高4285×1680×1525mm)に匹敵する本格的な乗用車である。

 軽量化を重要視した百瀬は、そのころ一般的だったフレームシャシーを嫌い、フルモノコック構造のボディを採用。フレームがないためボディ&シャシーは軽量になる。が、設計には煩雑で高度な計算が求められた。

 サスペンションは前がリジットではなくウイッシュボーン式独立懸架を採用。対する後は安定性と悪路での堅牢性を考慮してコンベンショナルなリジットを採用。駆動方式も一般的なFRとなった。

 P-1試作車第1号が完成したのは、1954年(昭和29年)2月20日だ。云うまでもなく、この試作車を使ったテスト走行が繰り返し行なわれた。こうして生産型完成車は翌1955年3月に出来上がった。「SUBARU 1500」である。

 しかし、ここへ来てP-1プロジェクトに暗雲が立ちこめる。富士精密工業からのFG4型エンジンの供給が不可能となるのだ。理由はいくつかある。

 なかで大きな理由は企業系列だった。富士精密には既にブリヂストンからの資本参加があり、プリンス自動車設立が間近だった。つまり、将来の富士重とはライバル関係になる自動車会社になることが見えはじめていたからだ。

 この動きを感じ取っていた開発陣は、代替エンジンを大宮富士工業に急遽開発を依頼。何とか乗り切ることになった。そのため、完成済みの11台には富士精機製のFG4A型エンジンを搭載、残りの9台は大宮富士製のL4-1型エンジン搭載で完成した。しかし、この時、メインバンクが融資を拒み、計画は中止に追い込まれる。

 中止の理由はこうだ。まず、販路が無かった。販売する目途がまったく無かったのだ。また、生産設備に対する莫大な設備投資も必要だった。しかも、100万円もする乗用車を購入できる日本人がいないという根本的な問題は置き去りにされていた。その後、プリンス自動車が業績不振に陥ったことを見れば、P-1計画中止の判断は正しかったのかも知れない。

 ともかくも、完成していたP-1のうち14台が実際にナンバーを取得。8台が各工場の社用車となり、残り6台は太田市などでハイヤーとして使われた。「スバル1500」と名付けられたP-1は、耐久性もあり、実によく走り、4号車の走行距離は40万キロに達したという。幻に終わったP-1計画だが、百瀬は乗用車開発に自信を深めていた。後に百瀬はこう言ったという。「飛行機から、バスの技術屋をやってきて、P-1で自動車屋になった」……。クルマ屋SUBARUの原点は実はP-1にあるのだった。

 ところで、百瀬晋六の人物そのものである。百瀬氏は1919年(大正8年)2月20日、群馬県塩尻町の酒造会社、いわゆる造り酒屋の次男として誕生した。母親の実家は自由な家庭環境で、それに馴染んだと後年語っている。長女だった母親の弟や妹にあたる若い叔父や叔母に可愛いがられて育ったようだ。

 1936年(昭和11年)、当時名門といわれた旧制松本高等学校に入学し、その後1939年に旧東京帝国大学工学部航空学科に進んだ。東大の後輩には、1年遅れで中島飛行機に入社する中村良夫がいた。中村は戦後、オオタ自動車から本田技研工業に移籍、HONDA F1チーム監督として有名になり、後にSUBARU 360の強力なコンパティターとなる「HONDA N360」の開発指揮を執った人物である。

 百瀬は1941年12月に東大を卒業、翌1月に中島飛行機に入社する。同期には後にプリンス自動車でSOHCのG型エンジンを設計した岡本和理がいた。当時、中島飛行機は国内最大の軍用機製造会社であり、創業者の中島知久平の新進たる精神が、脈々と生きた企業だった。戦後の談話のなかで百瀬は、「当時の中島飛行機には先進技術に取り組む自由闊達な雰囲気が満ちていた」と語っている。

 ただ、百瀬は入社して僅かに20日ほどで兵役となる。海軍少尉技術官として日本海軍に入隊。海軍航空技術廠発動機部に配属となり、エンジン過給器などの研究に就いた。その翌年、軍に在籍したまま中島飛行機に派遣となり、当時世界最速の偵察機「彩雲」搭載エンジンへのターボとインタークーラー艤装に携わる。1944年に軍を退役、会社に籍が戻る。そのころ百瀬が所属した中島飛行機小泉製作所設計部の技官は、研究・実験要員を含めて約1000名だったという。

 1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したことで終戦を迎える。米戦艦ミズリー号艦上で行なわれた降伏文書の調印をもって、日本はGHQの占領下に入る。その後の中島飛行機の解体、再興の経緯は前項第1章を参照されたい。

 そして、百瀬は前述「P-1」の開発、前項の第1章に詳しい「K-10」(SUBARU 360)の設計・開発に就いたのだ。

 前項の第1章で言及できなかったクルマ、1960年2月に発表となった異色の商用車「サンバー」も、百瀬が開発の指揮を執った製品だ。K-10から移植したメカニズムを最大限活用した軽四輪トラックだ。まだ、ボンネット型の軽トラックが主流だった時代に荷台スペースが最大にできるキャブオーバー型としたのだ。RRの駆動方式は空荷でもトラクションが不足するようなことがなく力強い走りを示し、全輪独立懸架の柔軟性の高いサスペンションによる良好な乗り心地は、積み荷にも優しいと好意的に受け止められた。発売当時のサンバー・トラックの価格は30.0万円だった。

 なお、同年9月には、サンバー・ライトバンを追加、翌年にそのデラックス版を発売。サンバーは後発ながらも順調に販売台数を伸ばして1963年には4万3000台/年を達成する。サンバーはSUBARUの軽商用車として認知され、その車名は続いたが、2020年生産終了が遂に発表された。

 SUBARU 360、サンバーとRR方式のクルマで成功作を送り出した百瀬は、いっぽうで自動車屋として、“フロントにエンジンを積んで、全輪を駆動する”「FF方式」が理想だと考えていた。そして、機は熟す。新しい小型車開発に乗り出す。

──敬称略──

以下、「SUBARU 1000」への道へ

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