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第1章 開発コード「K-10」──「SUBARU 360」の登場と軽自動車の発展

 通商産業省が国民車構想案を作成、新聞がスクープした年の1955年(昭和30年)、富士重工業は年末に伊勢崎製作所で“四輪車計画懇親会”を開催していた。そこで通産の構想案に準拠した軽乗用車開発が決定され、社内開発コード「K-10」とされた。

 ボディ&シャシーは前項で触れた「P-1」の開発で実績のあった伊勢崎製作所が行ない、エンジン開発はラビットスクーターの開発・改良が買われて三鷹製作所が担当することになった。

 「K-10」開発の事実上の指揮を執る伊勢崎製作所第2設計課の課長だった百瀬晋六だ。彼が開発にあたって掲げたコンセプトおよび目標は、

「大人4人がゆったり乗車でき、小型車に負けない性能を持ったクルマ」だった。そのために具体的に示された数値目標は以下のとおり。加速性能がバス以上、登坂性能はバス並み、悪路でも60km/hで走行できるためエンジンの出力は15ps以上、車両重量は350kg以下とされたという。

 当時でも軽自動車の寸法は、当時の運輸省令で規格が決まっており、全長×全幅×全高3000×1300×2000mm以下。これを超えることはできない。この規格枠のなかで大人4人が乗れる空間を得るのは、至難の業と云えた。

 そこで百瀬ら開発陣は、一般的なFR方式では無く、フロア下にプロペラシャフトが要らない駆動方式、RR方式(リアエンジン+リアドライブ)の採用を決めた。車体後部に搭載するエンジンはトランスミッションとデファレンシャルを一体化して小さくまとめリア・アクスルの上に横置きし、徹底してスペース効率をあげる。

 三鷹製作所が開発していたそのエンジンは、ラビットスクーター用のユニットを発展させたボア×ストローク61.6×60.0mmの356cc・2気筒2ストロークとされた。2スト・エンジンは排気口にカーボンが溜まりやすく、かつ騒音が酷いという弱点があったが、軽量で簡便な構造は魅力だった。試作エンジンは1956年冬、運輸省認定試験で16ps強を叩き出し、燃費も26km/リッターをマークする好成績を収める。パワーユニットの目途が付いたのだった。量産化したEK型エンジンは軽量化のために随所にアルミニウムが使われた。量産された市販車のエンジンは最高出力16ps/4500rpm、最大トルク3.0kg.m/3000rpmを発生するに至った。

 RR方式の採用は、運転席をできるだけ前方に出すことができる。メリットは室内空間を確保しやすいことだ。が、ドライバーの足元は、前輪サスペンションの張り出しが邪魔になる。リーフやコイルなどのスプリングでは、スペースを取り過ぎるのだ。そこで、シトロエン2CVに倣ったトーションバースプリングを使ったトレーリングアーム式独立となった。さらにリアサスペンションは快適性を狙ってスイングアーム式独立を採用。何と小さな軽自動車が四輪独立懸架の高度な足回りを得ることになったのだ。これが、軽量ボディで10インチタイヤという乗り心地に不利な軽自動車「K-10」に独特で柔軟な乗り味を提供することに繋がる。

 富士重K-10の真骨頂と云えるのは、そのボディ構造だ。伊勢崎製作所は戦前の航空機体の設計・製作と戦後のP-1試作で培った技術をつかってボディ設計を進めた。小さく軽量ボディで高い剛性を得るという、相反する要件を満たすためモノコック構造しか技術者たちの頭にはに無かったという。さらに自動車ボディとしては極薄い0.6mmの鋼板を採用。各所に高価なアルミを使って軽量化を図ったフルモノコックである。また、同じ目的でルーフは強化ポリエステル樹脂とした。

 後に「テントウ虫」の愛称で呼ばれることになるボディデザインは、「飽きがこない、そして無駄が無く、かつユニーク」であることという百瀬の注文に、工業デザイナーの佐々木達三が担当して応えた。

 すべては中島飛行機時代から培われた航空機製造のノウハウと妥協のない開発エンジニアたちの努力が結晶してK-10の試作車が完成したのは、1957年4月である。ほぼ市販車となる「SUBARU 360」の完成形に近いプロトタイプだ。

 その後、一般路で試験走行に供されて初期問題の洗い出しを行なう。テスト走行の舞台は伊勢崎~高崎で、最大の難所は赤城山・新坂平、全長14km、平均13度の急坂、そして悪路だ。結果、露呈したいちばんの問題は2ストロークエンジンの構造に起因するカーボンの焼き付き、空冷ゆえの冷却問題だったという。エンジンを担当した三鷹製作所のエンジニアがエンジンの改善に格闘する。そして1957年夏、K-10のテストは終わる。

 こうして全長2990mm×全幅1300mm×全高1380mm、重量385kgのEK32型エンジンを積み、最高速度85km/hのK-10が完成した。

 1958年3月3日、当時は東京・丸の内にあった富士重本社で記者発表が行なわれ、K-10は「SUBARU 360」と名付けられ42.5万円で販売された。そして、市場に登場したSUBARU 360は絶賛される。なかでも専門家や知識人らの評価は抜群で、欧州の自動車専門誌紙も「日本の冒険的な設計のミニカー」「東洋の大衆車」などと評価したという。

 SUBARU 360の市販車第1号車の購入者は松下電器、後のパナソニック創業者で、発想の神様とも云われた松下幸之助だったということはあまりに有名な話だ。さらに大相撲の横綱・吉葉山、漫画家の佃邦彦らの著名人もオーナーとなる。デビューして8カ月後の年末、SUBARU 360は累計販売1000台を達成、翌年は5870台を記録するヒット商品となるのだ。

 1960年を迎えて日本政府は“所得倍増計画”を打ち出し、いわゆる高度経済成長期に突入する。SUBARU 360のヒットを睨んで各社から軽自動車が登場する。マツダがR360クーペ、キャロル。スズキ・フロンテ、三菱ミニカなどが相次いで登場。SUBARU 360もルーフを巻き取り式キャンバスとしたコンバーチブルを追加。1960年に足回りとエンジンを改良して、最高速90km/hとしたマイナーチェンジを実施して迎え撃つ。

 また、太田市の群馬製作所の量産体制と合理化を推し進めて、数回の値下げを断行し1961年9月、スタンダードグレードとして36.5万円のモデルを発売して販売を伸ばす。1963年、軽自動車の国内市場規模は8万台/年というレベルにまで膨らんでいたが、そのなかでSUBARU 360は2万台/年、じつに4分の1と云うシェアでベストセラーの地位を不動のものとする。

 日本全国が東京オリンピック一色に沸いていた1964年5月3日、三重・鈴鹿サーキットで第2回日本グランプリが開催された。このグランプリで400cc未満の市販ツーリングカー「T-1クラス」に富士重は6台のSUBARU 360を送り込む。結果は全車完走、1位と2位を独占するクラス優勝を獲得した。実は富士重、前年の第1回GPにも参戦していたが、この年は3位入賞を果たしただけだった。その経験を活かした第2回、性能・技術は大きく向上し、スタート直後から他車を圧倒した。最速ラップタイムは3分22秒6、平均速度は105.5km/hとの記録が残る。

 SUBARU 360は年々、細かな改良が行なわれ熟成していく。1963年には印象的な“出目金ライト”と言われたヘッドライトが、機能的な樹脂製の庇のようなカバーがついた大型ランプに換わる。エンジンも徐々にパワーを増し、操縦安定性も上がる。1967年には遂に6万台/年を販売するにいたる。

 ところが1967年、強力なコンペティターが現れる。ホンダN360だ。2ストロークエンジンでRRが定番だった軽自動車に4ストローク2気筒SOHCを積んで前輪を駆動する画期的で革新の2BOXの小さなFF車は、31.5万円という破格のプライスで、瞬く間に軽自動車トップセラーの座をSUBARU 360から奪う。

 SUBARU 360も対抗してモデル末期となる1968年、歴代最強36psのエンジンを積んだトップモデル、ヤングSSを追加するも、1970年4月、SUBARU 360はその使命を終える。

──敬称略──

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