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プロローグ・SUBARU前史─中島飛行機の誕生と発展…

 1917年(大正6年)、群馬県太田町近郊の利根川沿岸に「飛行機研究所」が設立された。米ライト兄弟が翼のある動力機による有人飛行に成功した1903年以降、欧米各国で航空機産業が黎明期から成長期に移行しはじめていた時代に、中島知久平が開設した研究所だ。

写真はイメージです。

 中島知久平は当時、帝国海軍において将来を嘱望された海軍大尉だった人物だ。海軍機関学校を経て入隊した中島は、帝国海軍初の国産航空機「海軍水上機」の開発に加わり、軍が発注した機体や発動機を管理する立場に就くため、欧米留学で航空機を学んだという、日本人では稀な“飛行機の人”だった。

 留学を経て第1次大戦を経験した中島は、欧州情勢にも明るく、「経済力の無い日本の国防は航空機を中心に据えるべきで、早急に航空機産業を興すべきである」という信念を強く持つ。そして、海軍予備役となった中島は冒頭の研究所の看板を掲げた。

写真はイメージです。

 1917年12月17日、正式に海軍を退役した中島は、本拠を太田町尾島町に借り受けた洋館に移して、9名の陣容で飛行機研究所が発足したのである。1918年にはスポンサーからの資金を得て組織を日本飛行機製作所に改変して本格的な航空機産業に乗り出した。

 1019年に新設計翼を持ち、米ホールスコット製120馬力エンジンを搭載した四型機が初飛行に成功。ホールスコット150馬力エンジンに換装した五型機を20機、陸軍に納入して製作所は軌道に乗る。しかし、スポンサーと経営方針で対立、それまでの出資者が中島の解任を要求するも、中島は地元出身の代議士を通じて銀行融資を取りつけ、製作所の施設・資産のすべてを買い取る。同時に社名を中島飛行機とし、三井物産と提携して物産が中島飛行機の販売を担当、経営基盤を盤石とした。

 1925年には東京杉並の荻窪に工場を新設してエンジンの開発・生産も手がける。しかし、まだ軍から技術指導を受けていた中島飛行機だったことから、海外の技術導入に積極的だった中島知久平は、弟の中島乙久平にフランスに長期・研修出張を命ずる。より進んだ欧米の航空機技術の獲得・吸収が目的である。この中島乙久平こそ、戦後誕生することになる富士重工業の初代社長に就く人物である。

 1932年には、中島飛行機の機体が陸軍に制式採用となる。九一式戦闘機だ。日中戦争が始まる1937年、オール金属製の低翼単葉機・九七式戦闘機が陸軍制式機となった。1941年には「隼」の名で呼ばれた一式戦闘機が、そして1944年「疾風」の名で知られる四式戦闘機が採用された。

 しかし、「疾風」が制式機となった頃、戦局は本土決戦が叫ばれるほど悪化していた。米国軍のB-29爆撃機に対抗して5000馬力×6基のエンジンで、最高時速680km/h、20トンの爆弾を積んで1万6000kmの航続距離を持った、全幅65mの世界でも類を見ない超大型爆撃機「富嶽」の開発は中止される。

 そして、1944年夏にサイパンを陥落させた米軍は拠点を築き、11月24日に東京空襲がはじまる。ターゲット「90.17-357」、日本最大の航空機エンジン工場、中島飛行機・武蔵野製作所は、B-29の最重点爆撃目標となり、翌年8月8日まで、9度の爆撃を受けて壊滅する。1945年8月15日、敗戦。翌日には軍需工場の閉鎖、解散が通告され、中島飛行機はその歴史に幕を降ろす。

 同時に中島飛行機は社名・定款を変更して富士産業として、東京・丸の内の日本興業銀行内に本社を置いて、中島乙久平を取締約社長に据えて再出発を模索する。が、連合国軍最高司令官総司令部、GHQ(General Headquarter)によって四大財閥に準ずるとして、1950年に解体を命ぜられる。富士産業は太田、荻窪、三鷹など全国15工場・製作所が独立し、12社の第2会社となることを余儀なくされた。

 そのなかで三鷹、太田の両工場を母体とした富士工業が画期的な商品を生み出す。ラビットスクーターだ。この開発はアメリカ軍の兵士が使っていたスクーター「パウエル」が、太田工場に持ち込まれたことが、きっかけだったという。このパウエルを手本に、三鷹がエンジンを開発、太田がフレーム・ボディを製作して、125cc(135ccとの説もある)の二輪試作車が、すでに1946年6月に完成していた。試作車のタイヤ&ホイールリムは陸上爆撃機「銀河」の後輪が使われた。大量生産体制を整えて世に出たこのラビットスクーターは、戦後の庶民の脚として大ヒット。後に誕生する富士重工業の黎明期を支える商品として大きな役割を果たす。1947年から量産されたラビットは、繰り返し改良を受けながら、ホンダのスーパーカブが台頭する1968年まで20年以上生産・販売され、企業基盤を支えるロングセラーとなる。

 同じころ伊勢崎工場を母体とした富士自動車工業は、航空機の機体製造のノウハウを活かしたモノコックボディ構造のバスを手がけ、バス車体製造部門で知られる存在となっていた。そして、モノコックボディ&シャシーによる斬新な乗用車「P-1」の試作まで実施している。来たるべき時代を見据えた動きだったといえる。

 なお、荻窪工場を母体とした精密機械、小型エンジンを生産していた富士精密工業は、戦時中「隼」を生産していた立川飛行機、後の電気自動車「たま号」を作った「たま自動車」と提携し、後のプリンス自動車に発展する。

 1950年に勃発した米ソの代理戦争とも云われる朝鮮戦争が日本経済に特需をもたらす。1952年、対日平和条約であるサンフランシスコ講和条約が発効して、GHQの占領政策が一変する。財閥解体を緩和して、米政府は日本の工業・産業資産を活用する政策に乗り出す。つまり、旧財閥系が系列グループとして再結成に向けて動くのだった。

 中島飛行機でも再組織化への機運が高まる。1953年に富士工業(太田、三鷹工場)、富士自動車工業(伊勢崎工場)、大宮富士工業(大宮工場)、東京富士産業(旧・中島飛行機・本社)、宇都宮車輛(宇都宮工場)の5社が出資して富士重工業を設立した。そして、1955年4月、新しく生まれた富士重工業が、先の5社を吸収する恰好で、名実ともに富士重(後のSUBARU)が発足する。現在、SUBARU車に付く「六連星(プレアデス星団/和名「昴」……むつらぼし)」エンブレムは、新生・富士重工業がかつての中島飛行機から分かれた5社と企業統合した経緯に由来する。

──敬称略──

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