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「Prologue」PRINCE前史…中島飛行機と立川飛行機、そして解体からの出発

 プリンス自動車工業はかつてトヨタ、日産とならぶ日本3大自動車メーカーのひとつだった企業だ。その前身は戦時中の立川飛行機と中島飛行機にある。正確を期すならば、立川飛行機の一部技術者たちが戦後起こした自動車メーカーが、中島飛行機のエンジン部門だった会社と合併して出来た会社である。別項で詳報するが、後に日産自動車に吸収される。

引用:日産公式サイト

 1945年8月15日の終戦を迎えるまで日本の飛行機製造会社や自動車生産会社は、戦時体制に組み込まれた軍需産業として成立していた。それら企業は敗戦と同時にたくさんの従業員を抱えながら、将来の展望を描けないまま、再出発せざるを得ない状況に追い込まれた。自動車メーカーは、軍用車生産を民生機に切り替えトラックの生産などで活動を再開できたが、終戦と同時に航空機製造を禁じられた飛行機メーカーの状況は深刻だった。

 大規模企業だった国内飛行機メーカーは敗戦後に解体され、中小規模の第二会社に分割され、製造業として「今後、何を生業とする企業として活動・存続するのか」を検討することから始める必要に迫られた。

 ところで立川飛行機は、関東大震災後の不況期に企業再建を賭けて月島にあった石川島飛行機製作所が改称・改組して1935年に誕生した会社だ。本拠を陸軍立川飛行場の隣に作ったことが名称の由来だ。同社では陸軍の戦闘機「隼」「疾風」などの生産を行ない、最盛期には4万人以上に人が働いていた。また、朝日新聞社が企画した「東京~ニューヨーク無着陸飛行」に参加した長距離機「A-26(キ-77)」を開発した会社でもある。

 その立川飛行機は戦後の分割・整理で2500名ほどの社員と、焼け残った工場を使って将来性のある“モノづくり”として自動車を選んだ。この事業展開を主導したのが、長距離機「A-26(キ-77)」開発当時の工場長だった外山保である。

 機体を製作してきた立川飛行機はエンジン製造ノウハウを持っておらず、戦後のガソリン統制も厳しい時代にあり、自動車は電気で走るクルマを選択。早くも1946年11月に最初の実験車「EOT-46B型」2台を完成させた。

 ところが同じ11月、残された立川工場すべてを米軍が接収、米空軍機および自動車の整備修理工場とされた。これに反発した外山保ら200名程が独立し、府中刑務所の隣にあった遊休工場に場所を移して電気自動車開発を継続した。そして、1947年5月、乗用車「E4S-47型」を完成、「たま号」と名付けた。6月、資本金19万5000円で東京電気自動車を設立。開発したクルマは、1948年3月に商工省(現・経済産業省)主催の電気自動車性能試験で抜群の成績を挙げ、他社のクルマを圧倒し、翌年の試験で「たまセニア(EMS-48型)」は、フル充電航続231.5kmの新記録を達成、電気自動車の分野でトップメーカーとなった。

 その後も作れば売れるという状態で、順調に新型車を発表するも、月産30台程の規模では採算がとれない。会社の経営は行き詰まっていた。その時に手を差し伸べたのが日本タイヤ(現・ブリヂストン)の社長、石橋正二郎だ。この出会いが東京電気自動車の運命を大きく左右することになる。

 企業として資本金700万円となり余裕ができ、生産設備が整ったころ朝鮮戦争が勃発する。駐日米軍が朝鮮出兵し、砲弾などの一部は日本企業が生産し、経済特需が発生。砲弾の増産で鉛の価格が10倍にまで高騰した。電気自動車のエネルギー、鉛電池が生産できない事態に陥る。いっぽう、米軍がガソリンを大量の放出したため価格が下落。電気自動車は、その息の根を止めた。

 たま電気自動車はその動力をガソリンエンジンに換装する必要に迫られた。目を付けたのが、元・中島飛行機のエンジン製造会社、富士精密工業だ。発注したのはトヨタや日産がまだ1リッター未満のエンジンだった時代にパワーで優位に立つため小型車枠いっぱいの1.5リッターエンジンだ。参考にしたのはブリヂストンの石橋正二郎の個人所有車プジョー202だった。富士精密に貸し出したプジョー202は、バラバラにされ遂に石橋の元へは戻ってこなかったという。しかし、そのクルマをいたく気に入っていた石橋は再度輸入し、愛用したと云われる。

 1951年10月、完成したFG4A-10型エンジンは、1484cc直列4気筒OHVで、出力45ps/4000rpmとなった。そして、翌1952年2月15日、このエンジンを搭載した乗用車の試作車が完成。翌週には運輸省(現・国土交通省)の試験を受け、3月7日にブリヂストン本社で展示会が行なわれた。車名は「たま」「ブリヂストン」などの候補も挙がったが、1952年の明仁親王の立太子礼、その慶事を記念して「プリンス」とされた。

 同時に東京電気自動車は社名を「プリンス自動車工業」に改称する。

 1953年の夏、富士精密工にも出資していた石橋は、プリンスと富士精密のふたつの会社がバラバラに自動車生産を行なう無駄を指摘して、2社の合併を促す。動きは早く、11月に契約して、実行は翌1954年4月とまで決定した。新会社の社名は富士精密工業とされた。しかし、旧たま自動車系、富士精密系の技術開発陣、そして経営陣にはブリヂストン系の人脈も入り乱れ、社内に潜む軋轢が難題だったという。だが、とにもかくにも総合自動車メーカーとなったことで、新たな製品開発に乗り出す。

 1955年1月、初代スカイラインの開発計画が決定された。現在、プリンス自動車を吸収した日産のスポーツセダンとして名を継ぐ、日本を代表する名車の企画のスタートである。──敬称略──

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