1962年に西独NSU社とバンケル式ロータリーエンジン(RE)のライセンス契約を済ませた東洋工業は、早速その実用化に向けた研究・開発に取り組んだ。しかし、NSU社も認めていたように、いくつかの問題を抱えたREの前途は多難だった。
普通のレシプロエンジンは燃料の燃焼によって得られるピストンの往復運動をクランクシャフトで回転運動に変換するが、そもそもバンケル式REは燃料の燃焼エネルギーを直接回転運動として得る“新世代、夢の内燃機関”と言われた。
しかし、東洋工業が開発に乗り出してすぐに致命的と思える課題が次々に発生したのだ。なかでも大きな課題は、ローターが回転する際に、ローターハウジングに“チャーターマーク”と呼ばれる波状摩耗痕が発生し、ローターとハウジング間のシール性能が大きく低下することだった。実験現場では、チャーターマークが発生したエンジンから、もうもうたる白煙の発生とアイドリング時の激しい振動、そして常軌を逸した潤滑オイル消費が記録されている。
東洋工業のRE開発技術者たちは、何度も困難にぶつかり“奈落の底に落とされかけた”と社史に残るが、全力でそれらに立ち向かったという。そこにはコルク製造で培った化学の知見や素材・材料研究、工作機械部門による他の自動車メーカーでは真似のできない専用工作機械の自社開発力。そして当時、国内で最先端といわれた製造部門の鋳造技術、加えてサプライヤーの関連部品の先端製造技術が、“RE実用化”に向けて結集した。
1963年(昭和38年)4月、RE開発陣にとって大きなステップアップがもたらされた。当時の設計部長で後に社長となる山本健一を中心に、新たに「ロータリーエンジン研究部」が新創設・発足したのだ。東洋工業本社のRE開発への本気度を示す裏付けとも云える組織である。
この研究部の仕事は早かった。その年、1963年の秋の第10回全日本自動車ショー(翌年から東京モーターショーに改称する)で、その成果が示された。マツダ・ロータリーエンジンが単体で展示されたのだ。出展されたL8A型と呼ばれた399cc・2ローターと1ローターのエンジン2基で、1ローターあたり35psを発生するエンジンだった。エンジン単体だけの展示ではあったが、すでに2ローター版がプロトタイプ車のL402型(後のコスモスポーツ)に搭載されてテストに供されていたことがスクープされるなどで、集まったファンの注目度は高かったという。
また、そのショー会場に当時の社長である松田恒次がプロトタイプ車のステアリングを自ら握って乗り付け、会場にいた観衆を驚かせ、喝采を浴びたなどのエピソードが残る。以降、翌1964年、東京オリンピックの年の東京モーターショーから連続3回、熟成するコスモスポーツの改良型プロトタイプを順次展示する。同時に、L8A型エンジンから発展した491cc×2ローターの10A型の開発が進められ、市販型車のコスモスポーツに結実するのだった。
10A型ロータリーエンジンを積んだマツダ・コスモスポーツは1967年の東京モーターショーでデビューする。491cc×2ローターの10A型は、最高出力110ps/7000rpm、最大トルク13.3kg.m/3500rpmのアウトプットを発揮した。これが世界初の量産車「コスモスポーツ」に搭載された2ローターのロータリーエンジン(RE)のスペックだった。REの最大の弱点だったチャーターマークの問題は、日本カーボン社の協力を得て、カーボン製アペックスシールを開発・採用して解消した。
遂に日本の道を走り始めたRE搭載のコスモスポーツは、ボディサイズ全長×全幅×全高4140×1595×1165mm、ホイールベース2200mm。最高時速185km/h、0-400m加速16.3秒という数値をカタログに掲載し、発売後1年で343台を世に送り出す。
翌1968年7月、150mmホイールベースを延長して居住性を改善するマイナーチェンジを実施。後期型と呼ばれるこのクルマは、同時にREのチューンも行なわれ、最高出力128ps/7000rpm、最大トルク14.2kg.m/5000rpmにパワー&トルクアップが図られ、最高速200km/hを達成した。
非常に高級な2座スポーツクーペである同車は1972年(昭和47)年まで5年間生産され、初期型からの累計生産台数は1176台の稀少なスポーツカーだ。
東洋工業はコスモスポーツをデビューさせたことで、名実ともに“ロータリーエンジン量産車メーカー”の称号を手にしたが、RE生産企業としてスタートしたに過ぎなかった。前述のとおり、一般市販車とはいえ、世に送り出したRE車コスモスポーツの生産台数は4桁にやっと届く1000台そこそこだったのだ。そこで、同社はREに市民権を与えるべく新たな施策に乗り出す。その次世代への大きなステップはREの量産化である。
高価で高級なスポーツカー、コスモスポーツに換わる普及版RE搭載車をデビューさせることが、「MAZDA REパワー」の定着・普及に不可欠だと考えたのである。そして、新たなRE搭載車として選ばれたのが1967年11月に2世代目にスイッチしていた同社の稼ぎ頭であり、トヨタ・カローラや日産サニーのライバルでもあるリッタカーの大衆車、マツダ・ファミリアだった。
それはマツダREの普及促進と同時に、大衆車ファミリアのイメージリーダーとしても期待した決定だった。基本的なパワーユニットはコスモスポーツから譲り受けた10A型REであり491cc×2ローターだ。これを量産化する作戦だ。量産化のために行なわれた改良は多岐におよぶ。最大のポイントはエンジンブロックの素材に見直しだ。コスモスポーツでは、アルミ合金に炭素鋼を溶射するという高度な手法を用いていたが、特殊鋼の高周波焼入れ加工を施した鋳鉄に換装。さらに組立行程を自動化してコストを下げた。
こうして経費を削減し、デチューンして完成したエンジンは100ps/7000rpm、13.5kg.m/3500rpmのアウトプットを得る。これを全長×全幅×全高3830×1480×1345mm、ホイールベース2260mm、車重805kgの軽量コンパクトな2ドアのファストバックボディに収めてファミリア・ロータリークーペが1968年7月にマツダRE搭載車・第2弾としてデビューした。運動性能向上にあわせてオプションで最新のスポーツシューズである扁平ラジアルタイヤが用意されたのも注目点だった。
廉価版とは言えの高性能REエンジン搭載車「ファミリア・クーペ」をリリースしてヒット、成功を収めた東洋工業は、同時にREのバリエーション拡大を目論む。10A型よりもひと回り排気量が大きい13A型の登場だ。655cc×2ローターのこのエンジンは、「ルーチェ・ロータリークーペ」と名付けられたスペシャリティモデルの心臓となる。
ルーチェは1966年にデビューした、伊カロッツエリアのベルトーネに在籍していたジウジアーロがデザインしたスタイリッシュな上級セダンだ。
1967年の東京モーターショーにルーチェ・セダンをベースに、マツダデザイン部が監修した「RX87」の名でRE搭載の2ドアハードトップ化されたプロトタイプが発表。それがルーチェ・ロータリークーペだ。1969年10月、国産車で初めて三角窓を取り去った、全長×全幅×全高4585×1635×1385mm、ホイールベース2580mmの流麗なハードトップクーペとして発売された。126ps/6000rpm、17.5kg.m/3500rpmを発揮する13A型REをフロントに搭載し、前輪を駆動するFWD方式を採用した豪華なクーペだった。エアコンやパワーステアリング、パワーウィンドウなど豪華装備を満載したスーパーデラックスはコスモスポーツよりも高価な175.0万円に達した。1972年の生産終了までで、僅かに976台がつくられた稀少車である。このルーチェ・ロータリークーペ以降、FWDのRE車は無く、このクルマが唯一無二である。第1世代のMAZDA RE史に残る名車である。しかし、世界は悪夢のような第1次オイルショックを迎えるのだった。
──敬称略──