1950年後半から1960年代初頭にかけて、日本経済は飛躍的な発展をみせる。いわゆる高度経済成長期に突入するのである。そして、モータリーゼーションの初心者として日本も歩み始める。オート三輪メーカーとしてブランドを確立していた東洋工業も総合自動車メーカーとして飛躍を目指す。
1955年5月18日、当時の通商産業省(通産省:現在の経済産業省)は、唐突に国産⾃動⾞技術を前提とする「国⺠⾞育成要綱案」(通称・国民車構想)を発表した。国⺠⾞の条件は、以下のような内容だった。「最⾼時速100km以上、定員4⼈、エンジン排気量350~500cc、燃費30km/リッター以上、販売価格25万円以下」だ。この条件を満たす⾃動⾞を公募して、試作⾞の試験により量産に適した⾞種を1機種だけ選定し、財政資⾦を投⼊して育成を図る計画・構想だった。
ところがこの国⺠⾞構想に対して、⾃動⾞業界からもさまざまな対案や意⾒が表明され、最終的に1955年9⽉8⽇の⾃動⾞⼯業会理事会で、「条件を満たす25万円程度の国⺠⾞の開発は不可能だ」という結論が出された。
いっぽうで1950年(昭和25年)7月に、運輸省(現・国土交通省)が軽自動車規格を発表、三輪と四輪車のサイズは全長3000mm×全幅1300mm×全高2000mm以下とし、搭載エンジンも2ストロークか4ストロークで排気量が区別され、前者が240cc、後者が350ccと決まった。それが1955年3月に、2スト・4ストのエンジン区別を廃止してすべて360cc以下と改訂された。同時に軽自動車への税制面など優遇策が決まり、日本の自動車の底辺を支えるミニマムトランスポーターの登場が期待された。
それまで軽自動車規格サイズの「K360」などの三輪トラックなどを生産していた東洋工業は1960年4月、四輪軽自動車の乗用車「マツダR360クーペ」を世に送り出す。キャッチフレーズは「新しいファミリーカー、手軽なビジネスカー」だった。名称の360は言うまでもなく搭載エンジンの排気量で、“R”はリアエンジンを示す。
ボディはモノコック構造とし、ほぼ軽規格枠いっぱいの全長×全幅×全高2980×1290×1290mmのボディにホイールベース1760mm、車重わずか380kgのミニチュアカーではあったが、メカニズムには意欲的な技術が投入された。エンジンはボア×ストローク60.0×63.0mmの356cc空冷4サイクルV型2気筒OHVで、シリンダーヘッドやクランクケースはアルミ合金製、オイルパンなどはマグネシウム合金と贅沢な仕様とし軽量化を図った。エンジンの最高出力は16ps/5300rpm、最大トルク2.1kg.m/5000rpmを得た。最高速度は90km/hに達したと記録に残る。
このエンジンをリアに搭載し後輪を駆動。トランスミッションは4速マニュアルのほかに2ペダルのイージードライブ車、トルクコンバーター式2段AT車が用意されたことが注目だった。それらを支えた足回りは前後トレーリングアームにトーションバーラバースプリングを組み合わせ、ブレーキは贅沢なアルフィンドラム式を採用した。
室内設計は2+2レイアウトとは言うものの、後席は5歳程度までの子どもの利用がやっとで大人の着座には耐えられない、ほぼ荷物置き場だ。しかし、室内は曲面で構成されたR360クーペの個性的なフォルムを強調した樹脂製のリアウィンドウのおかげで、非常に明るく開放感に溢れる設えだった。
東洋工業が持てる技術のすべてを投入したR360クーペは、スポーティで洗練されたスタイルと30万円というリーズナブルな価格で、デビュー翌年には販売台数2万3417台を記録するヒット作となる。
東洋工業、第2弾となる乗用車は、やはり軽自動車のフル4座「キャロル(Carol)」だ。新型キャロルは、次世代の小型車に発展するための東洋工業として大切なステップと位置づけられる商品だった。
キャロルは1961年の全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)に出展されたマツダ700プロトタイプから派生し誕生したクルマだ。そして翌1962年2月に登場したキャロルは、その小型車をそのまま軽自動車の枠にスケールダウンするという基本的なコンセプトで登場したのだ。ボディは軽規格枠いっぱいの全長×全幅×全高は2980×1295×1340mm、ホイールベースは1930mmである。そしてリアウインドウが逆傾斜した個性的なスタイリングのボディには、後に4ドアモデルも登場する。
小型車のスケールダウンと思える、その第一の要件はエンジンだ。DA型と呼ばれたボア×ストローク46.0×54.0mm、358ccのエンジンは、何と水冷4ストロークの直列4気筒OHVエンジンで、オールアルミ製5ベアリングという小型車のパワーユニットとしても十分以上のスペックを持つ。気筒あたりの排気量は89.5ccで4発という凝ったメカのミニチュアエンジンだが、10.0という高い圧縮比から18ps/6800rpm、2.1kg.m/5000rpmの出力&トルクを得た。これをリヤのエンジンルームに右側にオフセットして横置き搭載、後輪を駆動する。空いた左側スペースにラジエターを置いた。
足元を支えたサスペンションはR360クーペと同じく、前後トレーリングアームにトーションバーラバースプリングを組み合わせる。
室内は大きな径のホーンリングが付いた、ごく細身の樹脂製ステアリングの向こうに、小さな速度計を置いたメーターナセルが備わる。床の小さなセンタートンネルから華奢なシフトレバーが生えたシンプルなインテリアである。
キャロルは発売後2年ほどで生産台数10万台を達成するという大ヒット商品となり、1966年にマイナーチェンジし、フェイスリフトと4ドアの追加、エンジンの20psへの出力アップなどが実施される。
同車は1970年まで生産が続けられ、累計26万5000台あまりが世に送り出される東洋工業のヒット作となる。小型車並みの4発エンジンが後輪を駆動する贅沢とも言えるスペックを持ちながら、最大のライバルと思われる当時のベストセラー軽カー、スバル360デラックスよりも2万円安い37.0万円だった。
ところで、キャロルのプロトタイプ、マツダ700をモーターショーで発表する1年前、1960年に東洋工業は西ドイツNSU社とあるライセンス契約についての仮調印を行なった。ロータリーエンジン、つまりバンケル式ロータリーピストンエンジンの開発に関する契約だ。翌1961年に政府の認可が下り、正式に調印する。軽自動車キャロルのヒットと並行して同時進行を始めた、もうひとつの東洋工業「Mazda Rotary Engine Story」の起点である。