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第2章 ホンダ初の量産4輪車「ホンダ・スポーツ」誕生、宗一郎と特振法■□

 本田宗一郎の夢・目標は4輪車をつくることだった。スーパーカブの大ヒットまでの経緯を見ると分かるように、彼はもともとモーターサイクルよりもクルマに興味を持っていた技術屋だ。その宗一郎率いるホンダが、まず手はじめに二輪車をつくったのは、第二次大戦後の世間の状況を冷静に見て、人の生活に便利な道具をつくることが必要だと考えたからだ。

1960年代街並み

 しかし世の中の市況は大きく変化していた。スーパーカブを発売した1958年(昭和33年)になると、戦後の混乱を脱した日本は“高度経済成長期”のまさに入り口にいた。宗一郎は「機は熟した」と判断。いよいよ四輪車の企画・設計に動く。

しかしここで、行政の高くて厚い壁が立ちはだかるのだ。当時、通商産業省(現・経済産業省)の官僚・役人たちの考えは次のようなものだった。

「日本の自動車産業が、海外の自動車メーカー(なかでも米国のビッグ3)と戦うためには、国内メーカーの合従連衡を推し進め、最終的に3社ないし4社に統合し、企業としての強大な資金調達力や経営耐力を持つべきだ」

 そのため通産官僚は、“特振法”すなわち「産業特別振興法」を国会に提出していた。1961年5月、通産省は貿易自由化にそなえて特定の産業を指定して、特典を与えて国際競争力を強めるための法案、特振法である。この法案が国会で承認・成立すれば、自動車業界で云うなら、既存する自動車メーカー以外は四輪車を生産することができなくなる。

 宗一郎は怒り心頭に発したとも伝わるが、ほんとうは焦っていたのかもしれない。彼は毎日のように霞ヶ関の通産省に出かけ、官僚たちに噛みつき吠えたという。

 このあたりのホンダと通産省のやりとりは、ホンダの元・社員だった作家の佐々木譲が著した小説『疾駆する夢』に、ホンダをモデルにしたとされる架空のメーカーの社長(主人公)が通産官僚とやり合うシーンとしてリアルに描かれている。

 そして、その裏側でホンダは特振法が成立する前にメーカーとして自動車を発表して既成事実をつくり、四輪車メーカーとして名乗りを上げるため、宗一郎とスタッフたちは急ピッチで四輪車開発を進めていた。結局、その途上、宗一郎らの直談判が奏功したのか、特振法は廃案となるのだった。

 当時、日本にはすでに10社以上の自動車会社が競合する状態だった。そのなかで凡庸なクルマを発表しても世間の注目は得られない。そこで、ホンダはモーターサイクルの技術を活用した小型スポーツカーを目指す。

 開発は急を超えた勢いで進められ、1962年に軽自動車枠に収めた、S360をホンダ販売店などの関係者内覧会・全国ホンダ会で公開し、その年の東京モーターショー(第9回全日本自動車ショー)に市販予定車として展示した。これが「ホンダ・スポーツS360/S500」である。S360/S500は来場者の熱い視線を集めた。なかでも注目されたメカニズムは凝ったエンジンにあったのだった。

ホンダ S500(1963)

 当時、国産車で500cc未満の小型車用エンジンは、簡便で軽量な2サイクル2気筒が主流だったなか、ホンダ・スポーツの2台は、スーパーカブでも宗一郎がこだわった、いずれも贅沢なオールアルミの4ストローク直列4気筒で、しかもDOHCヘッドが載った本格的なスポーツエンジンだった。さらに燃料を供給するキャブレターは気筒ごとに備わる4連装である。356ccのS360は最高出力33ps/9000rpm、492ccのS500が40ps/8000rpmを発生していた。当時全盛だったスバル360が18ps、トヨペット・コロナのリッターエンジンが33psだった時代である。いかに常識外れの高出力エンジンだったか分かろう。

 ラダーフレームに吊られたサスペンションは四輪独立懸架式で、前輪側はダブルウイッシュボーン式、特徴的な後輪側はチェーンドライブのケースをスイングアームとして機能させたサスペンションだった。

 なかでもS360は、当時の軽自動車枠に収まるボディ寸法、全長2990mm×全幅1295mm×全高1146mmという非常に小さなクルマ(S500は全長が約300mm長い)で、この独特なリアサスとチェーンドライブがなければFRレイアウトは成立しなかったと言われている。英国のライトウエイトスポーツを彷彿とさせるアルミパネルのダッシュボードなどは、ロータス・エリートを参考にしたといわれる。

 結局、S360は市販されなかったが、そのエンジンは軽トラック「T360」に搭載して1963年8月に発売。そして、S500は45万9000円で1963年10月に発売となる。量産されたS500はモーターショー展示車とはスペックが一部異なっていた。

 ボディサイズは軽自動車枠に収める必要が無くなったことで拡大。全長3300mm×全幅1430mm×全高1200mm。エンジンも実用域の扱いやすさを考慮して531.3cc(ボア×ストローク54.0×58mm)に拡大。44ps/8000rpmの最高出力、4.6lg.m/4500rpmの最大トルクを得た。この超高回転型エンジンに、フロアシフトの4速MTを組み合わせて675kgのボディを最高130km/hまで引き上げた。納車は1964年3月開始も、その年の9月に生産を終える。

 その年の1月、早くも進化型の「S600」が発表したからだ。“より高い出力”を求めて排気量を606cc(54.5×56.0mm)に拡大し、57ps/8500rpm、5.2kg.m/5500rpmを発揮したエンジンを積んで、50.9万円としたのである。

 ところがホンダは、「S」のさらなる進化と出力アップを図る。1965年10月の東京モーターショーで「S800」を発表するのだ。791ccまで排気量を上げたボア×ストロークは、エンジンブロックの限界ともいえる60.0×70.0mmとなり、最高出力は遂に70ps/8000rpmに達し、最大トルク6.7kg.mを発生した。このエンジンを積んだS800は0-400m加速を16.6秒、最高速度160km/hとし、カタログは“本格的100マイルカー”を唱い上げていた。価格は65.3万円だった。

 1966年9月、Honda Sは登場以来もっとも大きな仕様変更を受ける。特徴的だったチェーン駆動とスイングアームによるリアサスペンションが,一般的な4リンク・リジッドに換わったのである。一見すると独立懸架から固定軸への退化に思える変更だが、これは米国への輸出を見据えた変更だったという。広大なアメリカ市場では、複雑なスイングアーム式独立懸架サスのメンテナンス網確立が難しかったからである。リジッドアクスルならアメリカの田舎の修理工場でもメンテナンス対応が可能だと考えたのである。この変更を受けて、同年10月から米国への輸出が開始された。

 Honda Sの最終モデルとなるのが1968年2月に登場する「S800 M」だ。安全装備の強化がおもな目的だが、大きな変更がバイアスタイヤからダンロップSP3ラジアルに、フロントブレーキがドラムからディスクにアップデートされた。エンジンに変更はないが、自動選局式ラジオや大容量ヒーターなど装備が充実したこのモデルの車重は45kg増加した755kgになり、価格も75万円までアップしていた。

 Honda Sは、1970年5月にS800 Mをラインオフして、その生涯を終える。累計生産台数は約2万5000台といわれる。

 しかし、その頃、1967年登場の新しいHondaの乗用車がヒットしていた。

本格的4人乗り乗用車「Nの登場」へつづく

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