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第4章 オイルショックを乗り越えて「MAZDA RX-7」

 1973年10月、イスラエルとアラブ諸国の間で勃発した第4次中東戦争を契機に、世界経済に大きな打撃を与えることとなる第1次オイルショックは、世界で唯一量産車に搭載して喝采を浴びていた東洋工業のロータリーエンジン(RE)に難題を突きつける。

 3リッターから5リッターの大排気量エンジンで、ガソリンを大食いしても平然としていた米国消費者は、このオイルショックに異常と思えるほどヒステリックに反応した。クルマに求めるトレンドが、省エネへと一挙にシフトしたのだ。クルマの燃費性能に注目が集まり、日本車全般は燃費性能に優れていたことで、高評価されるのだが、REだけは例外とされた。

 ただし、実際にはビッグ3がつくる米国製の3リッターV型6気筒OHVエンジンに匹敵する性能を持った小さなREの燃費は、出力に対する燃費比では遜色が無いどころか、優れていたのだ。ロータリーだけが“ガス喰い”だと、指弾されるいわれは無かった。

 しかし、「僅か1000ccエンジンのクセに!」とされ、一度つけられた悪評はなかなか拭えない。その頃から米国社会で急速に高まっていた喫煙者&肥満者への排斥運動などと同じように、オイルショックにうろたえ、感情的に反応した米国消費者の非難の的となったのだった。

 こうした市場動向を受けて、東洋工業の社内でもロータリーエンジンを経営悪化の“戦犯”扱いする声も挙がったという。1886年にカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーのふたりのドイツ人がガソリンエンジンで動く自動車をつくって以来、多くの自動車メーカーによる100年におよぶ開発の歴史があるレシプロエンジンに対して、REの量産化はたった10年である。東洋工業は考えたという。「ロータリーエンジンは、まだまだ未知の魅力を秘めた内燃機関」だ、開発陣は「ここでロータリーエンジンから撤退することは、ユーザーやファンの信義に背き、メーカーの社会的責任の放棄に等しい」として撤退論に屈しなかったと社史に残る。

 そして、ロータリーエンジンの燃費を40%改善することを掲げた“フェニックス計画」をスタートさせた。1975年には、目標どおり燃費を40%改善したREを完成させる。そして、軽量・コンパクトなREの特質・特徴を活かした専用車種の開発が始まった。

 1978年3月、完成した改良型の12A型ロータリーエンジンだけを搭載した、SA22C型「初代サバンナRX-7」がデビューする。コンパクトなREをフロントアクスルの後方に置き後輪を駆動するフロントミッドシップFRレイアウトのRE専用スポーツモデルの登場である。ボディの外寸は全長×全幅×全高4285×1675×1260mm、ホイールベース2420mm。車両重量1005kgとコンパクトで軽量な2+2座のスポーツカーである。RX-3では、クーペのほかにセダンやステーションワゴンまでラインアップしたサバンナだが、この新型RX-7は2ドア+リア・ガラスハッチのスポーツクーペだけのクリーンなウェッジシェイプ・パッケージングの単一ボディだった。また、コスモスポーツ以来の同社2車種目となるリトラクタブルヘッドライトを持ち、これが、A+Bピラーで囲まれたキャノピーのようなキャビンと共に以降3世代にわたって続くロータリースポーツ「RX-7」のアイコンとなる。

 燃費を従来型よりも4割引き上げて搭載となった、新しい573cc×2ローターの12A型ロータリーエンジンの最高出力は、2ステージ4バレルキャブレターによる130ps/7000rpm、最大トルク16.5kg.m/4000rpmを発揮。1982年3月のマイナーチェンジで、6ポートのインダクションを採用して、幅広い回転域でパワーアップしたという。

 前述のようにREをフロントミッドシップに搭載して後輪を駆動するレイアウトで、当初は5速マニュアルトランスミッションだけが組み合わされた。なお、ステアリングシステムはノンパワーだが、ステアリングホイールの径は380mmとスポーティな小径だった。コンパクトなボディを支えるサスペンションは、前マクファーソンストラット式、後4リンクコイルと北米輸出も睨んだ堅実な構成となった。装着タイヤは全輪185/70R13サイズで標準のホイールはスチールだった。

 1983年9月には大規模な改良を受け、電子制御ターボを装着し165psを発揮するターボモデルが追加された。このターボ車でも車重は1050kgと軽量で、「ロータリーロケット」という愛称で呼ばれた。なお、1978年に登場して1985年に2台目FC-3S型RX-7にバトンをわたすまで、SA22C型の初代RX-7は、累計47万台を超える生産台数を記録した。そして、そのうち40万台近くが北米に送られたという。そのなかには、13B型REを積んだ特別なモデルも存在した。

 コスモスポーツから始まったREのモータースポーツへの挑戦は、ファミリア・ロータリーでスパフランコルシャン24時間に参戦して好成績を残した。そして、1970年にはベルギーのプライベーターがル・マンにロータリーエンジンで初参戦。1973年、日本勢としてシグマオートモーティブが、12A型を搭載したモデルで参戦した。

 以降、MAZDAのル・マン挑戦は途絶えるが、SA22C型の初代RX-7の登場で復活する。1979年、RX-7ベースの車両で参戦するも予選不通過。1980年に予選通過するも決勝リタイア。1982年にRX-7ベースとして最終仕様車「254」で挑戦し、寺田陽次郎+従野孝司+アラン・モフェット組が総合14位完走を果たし、順調に成長する。この継続が後に繋がるのだ。

 1983年から純レースカークラスのグループCジュニアに参戦。13B型エンジンを積んだ「717C」2台で挑戦し、総合12位完走・クラス優勝する。ル・マン挑戦は、その後も続けられ、1986年から3ローターエンジンの13G型を搭載するに至った。

 1988年には、4ローターの13J型エンジンを開発。1991年に参戦したその13J型搭載モデル「787B」が日本車初のル・マン総合優勝を勝ち取った。

 その後、RX-7はFC型、FD型に引き継がれ、MAZDA REを積んだピュアスポーツとして走り続ける。FD型RX-7の心臓は、最終的には最高出力280ps/6500rpm、最大トルク32.0kg.m/5000rpmを発揮する高出力&大トルクユニットとなるが、ターボ過給REの環境対応の難しさから、2002年8月に生産を終える。

 ところが2003年3月、ロータリーエンジンを搭載した4座スポーツ「RX-8」が登場する。搭載エンジンの型式はFD型に搭載した13B型の改良版で、ポートやハウジングを含め、ほとんど新設計の自然吸気型13B-MSP型エンジンだ。その最高出力はNAエンジンながら250ps/8500rpm、最大トルク22.0kg.m/5500rpmを発生。トランスミッションは主要グレードに6速マニュアルと6速オートマティックが搭載された。

 しかし、遂にRX-8も2010年5月、欧州排ガス規制「ユーロ5」に適合できずに、欧州での販売終了し、環境対応の難しさから2012年を以て「RX-8」の生産を終える。その後、MAZDAロータリーエンジン搭載車は途絶えたままだ。

 しかし、2015年11月の第44回「東京モーターショー」に、気になるモデルを出展した。ロータリーエンジン“SKYACTIV-R”搭載のスポーツカーのコンセプトモデル「Mazda RX-VISION」だ。MAZDAがロータリーエンジンを放棄していないという決意を表明したコンセプトモデルである。

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