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いすゞのラグジュアリーモデル「117クーペ」は、1968年から1981年まで長期間生産されたロングライフ商品だった。にもかかわらず、累計生産台数は僅かに8万6192台。決して商業的に成功したクルマとは云えなかった。だが、乗用車メーカーとしてのいすゞを牽引するイメージリーダーの地位は確かに確立したモデルであった。
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そのいすゞ・スペシャリティ「117クーペ」を継ぐモデルが、1981年5月13日に発表された。「いすゞ・ピアッツァ」(ISUZU PIAZZA)のデビューだ。
ピアッツァは1971年に米ゼネラル・モーターズ(GM)傘下に入ったいすゞが、GMグループのグローバルカーとして開発した「T-CAR」の日本版として1974年に発売した「いすゞ・ジェミニ」(ISUZU GEMINI)の主要コンポーネンツを活用してつくりあげた流麗な4座クーペだ。
そこで本稿の主題であるピアッツァの話に入る前に、そのワールドカー・ジェミニに簡単にフォーカスしておこう。
米ビッグスリーの一角、GMと提携したいすゞのワールドカー「ジェミニ」
ジェミニは当初“ベレット・ジェミニ”として日本でデビューしたように、国内ではベレットの後継車として位置付けられたクルマだ。GMの欧州ブランド「オペル・カデット」、米本国のGM「シボレー・シェヴェット」と兄弟車の関係にあったモデルである。ボディバリエーションは4ドアセダンと2ドアクーペの2種。主な仕様は極めてオーソドックスだったが、欧州的で合理的な設計とシンプルでクリーンなスタイリングが相まって市場では好感を持って迎えられた。
セダンのボディサイスは全長×全幅×全高4,215×1,570×1,365mm、ホイールベース2,405mm。トヨタ・カローラや日産サニーなどのライバルたちが揃ってFWD化するなか、堅実なRWDを採用した小型車である。パワーユニットはベレットの1.6リッターSOHCをクロスフロー化して搭載し、1977年に排気量を拡大した1.8リッターモデルを追加した。トランスミッションは5速MTと3速ATで、サスペンションは前がダブルウィッシュボーン式独立、後がトルクチューブの付いた3リンクリジッドと、これまた信頼性を重視した堅実な構成である。
RWDジェミニにDOHC搭載のホットモデル「ZZ」追加
1979年にジェミニ・クーペに、117クーペに積んでいたG180型DOHCエンジンを搭載したホットモデル「クーペ1800ZZ」が追加される。G180型エンジンはボア×ストローク84.0×82.0mmの1,817ccから最高出力130ps/6,400rpm、最大トルク16.5kg.m/5,000rpmを発揮した。このパワフルなユニットは車重975kgのクーペZZを豪快に走らせ、2T-Gエンジンを小さなボディに無理やり押し込んだ、トヨタの初代TE27型レビン&トレノの再来、いすゞのジャジャ馬娘と評された。1981年にはクーペだけだったDOHC搭載のZZ/Rモデルがセダンにも設定となった。これがまた、ベレGを思わせる、いすゞ製“羊の皮を被った……”として人気を博す。
このRWDモデルの初代ジェミニは、1985年にいすゞ独自開発によるFWD版2代目ジェミニにバトンを渡すまで10年という長いモデルスパンのクルマとなった。なお、世代交代しFWDの新型ジェミニ登場後もRWD初代ジェミニのセダンZZ/Rだけは、併売された。
ジウジアーロの「アッソ・ディ・フィオーリ」
そして、ピアッツァである。1979年3月、スイスで開催された国際ジュネーブ・モーターショーで、一台の美しいクーペのプロトタイプが世界初公開となった。いすゞ製「アッソ・ディ・フィオーリ」(Asso di Fiori)だ。車名はトランプカードの“クラブのエース”を意味するイタリア語である。
デザインを手がけたのは、1960年代から世界の自動車デザインをリードし続けてきた超一流のデザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロ(Giorgetto Giugiaro)その人だった。1938年8月7日にイタリアの自動車産業の中心地、トリノに生まれた氏は、美術高等学校に通っていたときに、たまたま描いたフィアット500(Fiat Cinquecento)のイラストが評価されて、フィアット社のデザイン部門に入る。さらに21歳の若さで、イタリアを代表する名門カロッツエリア・ベルトーネ(Carrozzeria Bertone)の総帥ヌッチオ・ベルトーネに抜擢されてベルトーネの主任スティリストに就く。
そこで彼は、アルファロメオ・ジュリアクーペGTなどの傑作を生み出し、カロッツエリア・ギアに移籍後に名作「いすゞ・117クーペ」を世に送り出した。そして、1968年自らのスタジオ「イタルデザイン」(Italdesign)を設立し、そこで独フォルクスワーゲンの初代ゴルフをデザイン。知ってのとおり大成功を収める。
その彼は、1970年代に積極的に取り組んだのが、大人4人が快適に移動でき、十分な荷室がある実用性を持ち、なおかつ流麗かつモダンなスタイルを両立したクーペの企画だ。そのコンセプトを一連の「Asso」シリーズとして提案していた。
そのコンセプト第一号モデルは、アウディ80をベースに開発し、1973年のフランクフルト・ショーで発表した「Asso di Oicche」(アッソ・ディ・ピッケ/スペードのエース)である。その後、BMWと組んで「Asso di Quadri」(アッソ・ディ・クワドリ/ダイヤのエース)を生んだ。
「117」後継を検討するいすゞとイタルデザイン、その思惑が一致
ジウジアーロが「Asso Concept」で世界の自動車業界の注目を集めつつあったころ、日本のいすゞでは、ブランドのイメージリーダーたる「117クーペ」の後継開発が真剣に議論されていたという。ギア在籍時にジウジアーロがデザインした「117クーペ」は、未だにそのクラシカルな美しさでエンスージアストを魅了してはいた。が、旧態化も否めなくなっていたのだ。そこで、いすゞは1974年からイタルデザインと“117後継”について協議を進めていたが、意見の一致は難しかったらしい。
難題を打開したのは1977年、イタルデザイン社の協働経営者である日本人実業家、宮川秀乃からいすゞへの提案だったという。その後の詳細は割愛するが、完成したのが前述した、ジュネーブ・ショーに参考出品した、いすゞ「アッソ・ディ・フィオーリ」(Asso di Fiori)プロトタイプである。
公開されたモデルは、シャープなフロントノーズに“クオーターカバー”と呼ぶハーフリトラクタブルライト、リアゲートの一部でCピラーを隠すヒドンピラーとした完璧なフラッシュサーフェスボディの未来的なアピアランス。それに負けない斬新な造形のダッシュボードのサテライトスイッチを含む見事なインテリアは、世界のエンスージアストの熱い視線を浴びた。そして、その年の秋、東京モーターショーでも公開され、生産化、つまり「ピアッツァ」に至る道筋を歩みだした。
1981年5月13日に現実に発売された美しきクーペ「ピアッツア」は、そのスペックなどは語るべき事柄として子細だが、いちおう簡単に触れておく。
足回りを含めたシャシーは初代ジェミニから移植したことから、駆動方式はRWD。サスペンションは前ダブルウィッシュボーン式独立、後3リンクリジッドとジェミニそのままだ。
パワーユニットもデビュー時にはPF系ジェミニZZの直列4気筒DOHCエンジンの排気量を1949ccに拡大したG200WN型DOHC、最高出力135ps/6,200rpm、最大トルク17.0kg.m/5,000rpmのほか、2リッターOHCが用意され、後にそのターボ仕様が追加となる。スペシャリティモデルに相応しくピアッツァとの相性も抜群だったターボユニットは180ps/25.5kg.mを発揮するに至った。トランスミッションはいずれも5速MTと4速ATだった。
ショーモデルを思わせる美しいボディのサイズは、全長×全幅×全高4,310×1,655×1,300mm、ホイールベース2,440mm。量産化されてもコンセプトカーと変わらない美しさの秘訣は、いすゞがイタルデザインへ送られた発注書にあった詳細な要求書にある。そこには以下のような記述もあったという。
「ベースとなる車型:PF型ジェミニの右ハンドル仕様車。寸法諸元:ホイールベース2,405mm、リアオーバーハング820mm以上」で、これを踏まえて、ジウジアーロは緻密なデザインを完成させたのだった。
途中、細かな改良、「イルムシャー」仕様車、足回りにもロータスの手が入った「ハンドリングbyロータス」などを加えて1991年まで生産された。