世の中のトレンドというものは、不思議にトレンドセッティングする複数の発信アイデアが符合することが多い。ファッションという流行の塊のような分野でも、世界のモードをリードするパリコレやミラノコレクションの場で、世界を牽引するデザイナーの狙いや思惑が不思議に一致することが多いのだ。クルマの世界でも然り、そんな例がバブル期の日本の軽自動車にあった。
1991-1992年になって国内自動車メーカー3社から軽自動車のスポーツカーが相次いでデビューした。ホンダ・ビート、スズキ・カプチーノ、マツダ・オートザムAZ-1の3台である。メーカーたるもの常にトレンドを意識してアンテナを張り巡らせて商品開発に臨むのは当然だが、80年代までは存在しなかった軽自動車の2座スポーツが、まるで申し合わせた“のように市場に投入されたのだ。
■現在の軽自動車規格よりも小さな3台
しかも、それら3台は単純に“軽のスポーツカー”と一括り出来ないほど、開発アプローチが異なる個性派だったのだ。
エンジンを運転席の背後に搭載するミッドシップのオープン2座MR駆動を採用しながら、本格スポーツとは訴求せず、軽快でシャープな走りで“パーソナルトランスポーター”を標榜したビート。
いっぽうで、フロントエンジン+後輪駆動のオーセンティックな2座オープンの“スポーツ”モデルとしたカプチーノ。
ビートと同じくミッドシップレイアウトを採用しながら、特異で人目を惹くガルウィングドアを纏って“ファンカー”を目指して登場したAZ-1と、個性派揃いだったのである。
3台がデビュー当時の軽自動車規格値は、現在の全長3,400mm×全幅1,480mm以下というサイズよりも小さく、全長3,300mm×全幅1,400mm以下とされていたので、3台ともにその規格寸法に収まっていたのは云うまでもない。
■K-Car初となる2座ミッドシップスポーツ
最初に市場に現れたのは、1991年5月発売のホンダ・ビートだった。リアミッドシップに搭載するエンジンは同社のトゥデイと基本的に同一、E07E型・直列3気筒SOHC12バルブの自然吸気エンジンだ。しかし、MTRECと呼ばれた3連スロットルに圧縮比10.0、ホンダ独自の電子制御燃料噴射PGM-FIが組み合わされ、軽自動車ターボと同等の最高出力64ps/8100rpm、最大トルク6.1kg.m/7000rpmを発揮した。これを60度前傾させてリアミッドに横置きに積み、5速マニュアルを組み合わせた。
サスペンションは前マクファーソンストラット式、後ストラット式と特段凝ったレイアウトではないが、共にロワアームをワイドな設計として剛性アップが図られており、リニアで安定したハンドリングをもたらした。ステアリングはシャープなセッティングのノンパワー・ラックアンドピニオンで、ステアリングリムは360mmφの小径3本スポークが与えられていた。ブレーキはソリッドながら4輪ディスクブレーキである。
全長僅か3295mmで、そこに2280mmの長いホイールベースを与えて、前後オーバーハングは極めて短く詰めた。故にキャビンの前後長は十分。加えてセンタートンネルを25mm助手席側にオフセットした設計で、運転席は180cmの長身者でも楽にドライビングポジションが得られた。しかし、その代償で助手席はミニマムであり、「1+1シーター」モデルと揶揄されもした。同様にトランクスペースも最小限で、2名乗車ではちょっとしたバッグの置き場にも困った記憶がある。
手動で開閉するキャンバストップの操作もごく容易で、どちらかというとキュートなスタイリングから、謳い文句どおり、小粋な“パーソナルトランスポーター”にはぴったりだった。故に、市場の女性ファンから、ATモデルを望む声も挙がったと言うが、実現することは無かった。当初は車両価格138.8万円のモノグレードだった。
■軽自動車ながら伝統的なロングノーズFRスポーツ誕生
1989年にユーノス・ロードスターが切り拓いたライトウェイトオープン2座スポーツのカテゴリーに、軽自動車で挑んだのが1991年11月に登場したスズキ・カプチーノだ。スズキ初のオープンスポーツであり、ホンダ・ビートよりもやや高価な145.8万円で発売され、ビートと共に軽自動車枠に収めた小さな2座スポーツとして人気となった。
搭載エンジンは当初輸出用アルトの800ccも検討されたが、1990年11月の軽自動車規格変更で、排気量が550ccから660ccに変更されたことで、新・軽自動車枠で設計・製造となった。
基本的なレイアウトはフロントエンジン+リアドライブの“丸いウェッジ”と呼んだデザインコンセプトのロングノーズ&ショートデッキとした伝統的なFRスポーツとなった。ボディは脱着式ルーフやリアピラー、ボンネットフードなどを高価なアルミニウム製として軽量化を図っている。ユニークなのはルーフで、通常クローズド状態ではハードトップに見えるが、左右2枚の着脱式ルーフを外してTバールーフ、さらにセンターバーを外すとタルガトップに、そしてリアピラーを取り去ってフルオープンにと、4通りの形状に変化させられた。
この2座スポーツに与えられたパワーユニットは、当時のスズキK-Carエンジンとして最強のアルトワークス用F6A型・直列3気筒DOHC1ターボ+インタークーラーで、アウトプットは最高出力64pa/6500rpm、最大トルク8.7kg.m/4000rpm。これをフロントアクスル後方のフロントミッドに縦置き搭載した。トランスミッションはデビュー時、5速マニュアルのみだったが、1995年5月のマイナーチェンジで3速ATが電動パワーステアリングとセットで選べるようになった。
支える足回りは、前後ともにダブルウイッシュボーン式独立で、ブレーキは前ベンチレーテッドディスク、後ソリッドディスクであった。FR車のスポーツ走行に有力なアイテムであるLSDは、ABS とエアバッグとのセットオプションで選択できた。ボディ色は当初、赤とシルバーの2色(ルーフはともに黒)だけという潔い設定だった。
■ガルウィングドアが特徴的な2座ミッドスポーツ
ロードスターが1989年にデビューして拍手を持って迎えられていたマツダが発売したのが、マイクロスポーツのAZ-1だ。1989年の東京モーターショーで、A案、B案、C案の3種のプロトタイプが展示され、来場者の反応を見極めて発売された、ガルウィングドア仕様のスポーツクーペ、プロトタイプA案の市販化モデルだ。前述のホンダ・ビート、スズキ・カプチーノに次いでデビューしたモデルである。
開発コンセプトは“楽しいハンドリングと安全性能”の最優先で、単純明快にして迷わず「ミッドシップ後輪駆動レイアウト」に決まったという。幅のある大断面サイドシルを持つスケルトンモノコックフレームという新しいボディ骨格を軽量で成形自由度の高いプラスティック製のアウターパネルで覆った、特徴的なガルウィングドアの2座クーペだ。
運転席背後のリアミッドに搭載したエンジンは、スズキ・アルトワークスから流用したF6A型・直列3気筒DOHC1ターボ+インタークーラーで、横置き搭載。アウトプットは最高出力64pa/6500rpm、最大トルク8.7kg.m/4000rpm。ただし、カプチーノ用とはチューンが異なり、レブリミットが9000rpmと、カプチーノの8500rpmよりも高い設定だった。足回りはアルトワークスのフロントサスペンションを前後に使った4輪ストラット式独立。ブレーキは4輪ソリッドディスクである。
そのAZ-1のコーナリングは、ミッドシップらしい前44:後56という前後重量配分、720kgの軽量な車重、そしてロック・トゥ・ロック2.2回転という超クイックなステアリングなどで、“恐ろしくシャープ”と表現された。その尖った特性に惚れ込んだ愛好家は少なくなかった。
■個性派揃いの「平成ABCトリオ」
AZ-1、ビート、カプチーノは本稿でもそうだが、3台まとめて頭文字から「平成ABCトリオ」として語られることが多い。発売当時も、専門誌では3台揃えて特集なり試乗記事などを組んだ。しかし、乗り比べるとそれぞれ豊かな個性の持ち主だった。
簡単に云うと、キャビンが後退した古典的なフロントエンジンのスポーツ、カプチーノは後輪駆動の素直なハンドリングとターボパワーが身上。唯一、自然吸気エンジンのビートは、ややトルク不足だが、ブレーキやシフト、ステアリングフィールのいずれもがカッチリしたバランスド・スポーツ。その運動性能はトルク不足を補って十分な印象だった。未来的なスタイルのAZ-1はワインディングやミニサーキットなどで、如何なく韋駄天ぶりを発揮する本格ミッドシップの味わい、と云ったところだろうか。
ちなみにホンダ・ビートは1996年まで生産され累計3万3892台、AZ-1は1994年に4409台で生産を終え、カプチーノは生産2万6583台、1998年まで生き延びた長寿モデルとなった。これら3台は、いずれも絶滅種だが、ホンダの軽スポーツは「S660」として復活している。