いまや世界最大の自動車メーカーと云われるトヨタ自動車の礎は、豊田自動織機で有名な豊田佐吉が興した豊田自動織機製作所にある。佐吉の長男である喜一郎は、東京帝国大学工学部を卒業。豊田紡織に勤務しているなかで、佐吉より自動車開発の命を受ける。
1921年、東京帝国大学工学部と法学部を終えた喜一郎は、佐吉の指示で会社経営を学ぶ目的も含め、欧米へ機械工学技術の視察・研修に赴き、実際に現物を見て事実をもって理屈を理解するという、喜一郎の技術開発哲学 “現地現物主義”が確立されたとも云われる。
帰国後、豊田自動織機製作所で、いわゆる“機(はた)織り機”を高度に自動化して人為的ミスを防止する画期的な「G型自動織機」を完成させる。
■機織り機会社から自動車メーカーへ
そのころ将来の産業構造を見越した父の佐吉は、1927年に亡くなる前、喜一郎に自動車産業の研究を命じたという。
東京で関東大震災に遭って、その後の復興で活躍する自動車を見て、その後の日本経済にとって重要な地位を占めると予感、自動車産業に注目していた喜一郎は、“我が意を得た”として、1933年(昭和8年)9月1日、設立間もない豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を設置し、1934年9月に試作ガソリンエンジンのA型を完成させ、A1型乗用車を試作した。
2年後に実際に自動車製造を開始。1935年11月に商工省と陸軍省の要請で開発した「G1型トラック」を発表する。
G1型トラック発表会は東京自動車ホテル芝浦ガレージで行なわれ、工場渡し価格で完成車3200円、シャシー2900円となった。
ただ、自動車販売におけるその体制はまったくの未整備だった。
こうした状況下、日本の産業保護政策を進める商工省の岸信介が発案した「自動車製造事業法」によって、海外メーカーの日本法人の存続が難しくなる。
■販売体制と部品供給体制の整備・確立
当時、日本ゼネラルモーターズ(GM)に在籍していた神谷正太郎は、三井物産シアトル支店時代の知人で、名古屋商業学校の先輩である豊田紡織の岡本藤次郎取締役を訪ね、豊田喜一郎常務に会う。
そして、神谷は同じ日本GMに在籍していた花崎鹿之助、加藤誠之と共に、1935年10月に豊田自動織機製作所に入社。
早速、販売部を設置して、トヨダ車の販売組織づくりに取りかかる。
喜一郎から販売体制の構築を任された神谷は、日本GMの販売組織を踏襲し、製造会社が資本関与しない販売会社を設置する。
これに対して、日本GMはその販売代理店の国産車(トヨダ車)販売への鞍替えを黙認したため、トヨダ車の販売会社は大部分がGM系販売店、なかでもシボレー店の鞍替えによって組織・構成された。
米フォードとGMは、日本を去った。ライバルというよりも強力な先輩と云える2社の撤退によってトヨタ社製トラックへ軍部からの発注は一気に増えた。しかし、2社の撤退で優良な自動車部品の供給も無くなったのだ。日本の自動車部品メーカーは、まったく育っていなかったのだ。
そこで喜一郎は、東海飛行機(現:アイシン)や日本電装(現:デンソー)、トヨタ車体などを興してサプライチェーンの基盤構築を実施した。
東海飛行機は1942年に設立された航空機部品メーカーで、戦後に自動車部品を手がける。愛知工業、アイシン精機と社名は変遷したが、一貫してトヨタグループの中核部品メーカーだ。いっぽう、トヨタ自動車の電装部が独立した会社が日本電装で、エンジン回りの電装品の設計生産を担う。
現在、デンソーは独ボッシュや同コンチネンタルと並ぶ、世界トップクラスの自動車部品メーカーとして、世界の自動車メーカーに部品を供給する。
話は前後するが、自動車組立工場の生産が軌道に乗り、月産100台を超えた1936年9月、東京・丸の内の商工奨励館で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」を開催した。
そこでは、AA型乗用車4台、AB型フェートン2台、GA型トラック、DA型バスシャシー、消防車、軍用トラック、ウインチ付ダンプ・トラックなど合計15台を展示した。
■濁点のない“トヨタ”誕生と本格的工場建設
ほぼ同時に、豊田自動織機製作所自動車部が開発する自動車に付けるマークの募集が、豊田系関係会社従業員を対象に行なわれた。1936年7月5日付の自動車部広報紙『トヨダニュース』第3号に「トヨダのマーク懸賞募集規程」が掲載。
そして、2万7000件を超える応募から選ばれた「トヨタ・マーク」が発表され、同時に「トヨダの“ダ”の濁点を取って『トヨタ』と改称する」と告知している。
そして、トヨタ自動車の前身となるトヨタ自動車工業を1937年に設立した。初代社長には佐吉の娘婿である豊田利三郎が就いた。自動車会社としてのトヨタの実質的な創業者の喜一郎は副社長となる。
利三郎は佐吉の長女の夫君であり、喜一郎の義兄にあたる人物だ。東京高等商業学校(現:一橋大学)を出て伊藤忠商店(現:丸紅)に勤務。マニラ支店長を経て豊田家に婿入り、豊田自動織機製作所の初代社長だったが、自動車産業への進出には否定的だったと云われる。
同じ年、喜一郎は愛知県西加茂郡拳母町に58坪の土地を取得、自動車専用工場「拳母工場」を起工した。日本初の大規模な自動車生産工場で、現在の豊田市にある本社工場である
1942年(昭和17年)、太平洋戦争の戦時下にトヨタ自動車2代目社長に就任した豊田喜一郎は、技術開発者としてだけでなく、経営者としての才覚を発揮したようだ。戦時下でトヨタ自動車は、銀樹産業の一環で、軍用車製造に専念させられたが、経営と生産の合理化では手を抜かなかった。
トヨタ自動車工業となって最初の工場建設では、部品を供給するメーカーとの連携を強化し、綿密な納品計画を徹底させ、在庫を減らすことを進めた。後に世界の工場が見習うトヨタ生産方式「ジャスト・イン・タイム生産方式」、戦後に定説となるトヨタ生産方式である “カンバン方式”の基盤をつくった。
戦後、トヨタもデフレーションの影響を受け、経営危機を招き、喜一郎は1950年に辞任。そんな喜一郎のひとつの計画は完全オリジナルの乗用車生産だ。国産セダンとして今に名を残す「クラウン」は喜一郎の命名だという。トヨタの経営が持ち直し、社長への復帰直前に喜一郎は脳溢血に倒れる。初代クラウンの完成を見ることなく、1952年に他界する。クラウンは1955年に登場。2018年、豊田喜一郎は米国自動車殿堂入りを果たす。──敬称略──