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【ホンダ夢の追求】Prologue「前夜」

 諏訪湖を水源とした天竜川が、現在の静岡県西部、浜松市天竜区を流れている。1906年(明治39年)当時、あたりは磐田郡光明村と呼ばれた寒村だったが、その年の11月17日に男は生まれた。本田宗一郎である。村で農機具などを製作する鍛冶屋を営んでいた父・儀平と母・みかの間にできた最初の子どもだった。

天竜川
Tomio344456投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる

 宗一郎が6歳のころ、はじめて近代的な乗り物である自動車に遭遇、その動く機械は少年を大きく魅了したと伝わる。そのころ、父・儀平は鍛冶屋から自転車屋へ転身を図っており、機械に対する宗一郎の興味はどんどん膨らんでいたようだ。その後、父が興した自転車屋に届く業界紙を眺めていた宗一郎は、片隅に東京・湯島の自動車整備修理工場であるアート商会の「従業員募集」という広告を見つける。1922年、高等小学校を卒業すると宗一郎はアート商会に入社すべく上京することになるが、入社といっても当時の宗一郎はまだ15歳、子どもの丁稚奉公である。

 アート商会での修行をはじめてしばらく経った1923年9月1日、関東大震災が東京を襲う。東京中が壊滅的な被害を被る中、アート商会は宗一郎の機転で工場は難を免れ、これを機に丁稚から修理工へと宗一郎は昇進するのである。

 アート商会に入って6年経った1928年、社長から“のれん分け”の話でたことで、宗一郎はアート商会浜松支店設立することになった。宗一郎はそのらつ腕をふるい、修理工場はみるみる発展、3年経ったころには、社員50名の大所帯となり、浜松で最大の工場になっていた。

 しかし宗一郎は満足していなかった。創業から6年を経た時に、工場を売却する。その時、宗一郎は「田舎で修理工場をやっていても、つまらん」と言ったという。

 浪人する宗一郎は弟の弁二郎と趣味のレースに没頭、その無鉄砲さからレース中の事故で大怪我を負ってしまうも、怪我が癒えた宗一郎は1937年、ピストンリング製造会社である東海精機重工業を設立する。

ところがピストンリングの量産化はうまくいかなかった。端的に言えば技術がなかったのだ。技術不足を打開するために宗一郎は、現在の静岡大学工学部、当時の浜松高等工業専門学校で3年間学ぶことにした。金属加工を基礎から勉強するためだった。こうした努力が奏功して量産化は成功、トヨタ自動車や中島飛行機などに納品することができるようになったのである。本格的な自動車づくりをはじめようかと画策していた矢先、日本は先の無残な大戦に突入する。東海精機も宗一郎の目指すところとは関係なく、軍需産業の一翼を担うこととなるのである。

 1945年、つまり終戦の年の秋、すぐに宗一郎は東海精機を豊田自動織機に売却してしまうのである。しかし、その後の宗一郎の行動は素早かった。翌1946年、内燃機関の研究と製造を目指すことを目的とした本田技術研究所を創設するのだ。

 その研究所から最初に生み出されたヒット作が、世に知られる「バタバタ」である。戦時中に軍が使っていた通信機の発電用小型エンジンを利用した、エンジン付きの自転車だ。終戦後の統制経済下で、この便利な乗り物は“庶民の足換わり”となり、本田技術研究所に「バタバタ」の注文が殺到するのだった。

これにより本田技術研究所は順調に売上を伸ばす。1948年9月には、現在の形である本田技研工業株式会社に発展する。ホンダの物語は、ここからはじまるのである。

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