1969年、本田宗一郎はそれまで一貫してこだわってきた空冷エンジンから水冷エンジンのメリットを認め、水冷エンジンの開発を指示。最初に水冷ユニットを積んだのは軽自動車のライフだったが、1.3リッター空冷で頓挫していた小型車用水冷エンジンの開発が始まる。
それまでの1.3リッター空冷は、1969年に発売した、きわめてボクシーなデザインで直球勝負に出た4ドアセダン「ホンダ1300」に搭載していた。が、セダン「1300」の販売自体が不振で、新しい水冷エンジンの開発はまったくの白紙からはじまった。さらにエンジンだけで無く、それを積む製品であるクルマそのものに、“世界に通用するクルマに!”という命題が与えられた。
プロジェクトがスタートする。開発・設計は本田技術研究所の若手スタッフが中心になって進められ、それまで必ず商品開発の陣頭指揮を執ってきた宗一郎は、設計から一歩引いたところに立っていたという。新型車の名前はシビックとなった。
ところで、エンジンが水冷になったことでホンダのクルマが新時代に移行したのではない。根本的な開発思考が、それまでと違った。まずエンジンありきのホンダ製品開発から、シビックはパッケージングを最初に決めて車両開発した初めてのホンダ車となったことが新しいことだった。
シビックの開発では、最初にライフをベースにボディサイズを決めたという。前後ホイールアーチの距離をライフと同じ設定とするコンパクトなクルマを設定値とした。つまり、フロントタイヤが収まるフロント・ホイールアーチ後端から、リアホイールアーチ前端までの距離を同じにするというパッケージを基本としたのだ。ただし、両車のホイールベースはライフが2080mm、シビックが2200mmと120mmの違いがある。これは、10インチタイヤの軽自動車ライフと12インチのシビックの違いが生んだ軸間距離なのだ。
小さな外寸のなかで可能な限り広い居住空間を確保するのが、今も昔もコンパクトカー設計の基本だが、このホイールベースでタイヤを台形2BOXボディの四隅に配して前後オーバーハングを切り詰めてデビューしたシビックのボディは全長3405mm×全幅1505mm×全高1320mmとなった。全長に比べて広めの全幅は、当時想定したライバル、カローラと同じ、小型車らしいゆとりを得るためだった。
運転席に身体を収めると、ライバルに比べて広々した室内空間に驚かされる。ホイールハウスの張り出しはやや大きいものの、センタートンネルのないFF車の美点で前席・後席ともに足元は広い。ダッシュボードが低い棚状レイアウトとして必要なメーター類を配置。必要なものだけを配し、圧迫感を排除した簡素なインテリアだったが、アルミ風2本スポークステアリングを含めて、欧州車のようなお洒落感と以降のホンダ車に共通する開放感がみごとに調和していた。
このコンパクトな2BOXボディにテールゲートを備えた3ドアHBと、小さなトランクリッドを持った2ドアを用意した。現在なら3ドアHBの方が合理的で普通のレイアウトなのだが、いかにホンダが先進的な自動車メーカーであっても、1970年代当時は、まだリアのハッチゲートなど「ライトバン(貨物車)みたい!」と揶揄・蔑視され、嫌われる風潮が残っていた、それを反映した結果の2種のボディだ。
搭載エンジンは、1159ccの水冷直列4気筒SOHCにシングルキャブレター仕様として、60ps/5500rpm、9.5kg.m/3000rpmというホンダエンジンとしては控えめな出力&トルクのユニットだった。ピークパワーよりも日常域での扱いやすさを重視。エンジンそのものを小さくコンパクトにまとめ、人間のためのスペースを最大限に確保することが優先された。このパワーユニットを小さなノーズに横置きして4速マニュアルミッションを介して前輪を駆動した。非力に思えたエンジンでも、600kgを僅かに超える重量の2BOX車には十分すぎる運動性能を提供したのだ。
それらを支えた足回りは、4輪マクファーソンストラット式の独立懸架。これが、フラットな床、良好な乗り心地や高い操縦性・ハンドリング性能、そして軽量化に貢献した。
1972年7月に、スタンダード、デラックス、ハイデラックスの3グレードで発売されたシビックは、早くも2カ月後にはスポーティグレードのGLが追加された。搭載エンジンは69psに軽くチューンアップされ、前輪ディスクブレーキ、大型バンパーを装着し、日本車初の装備としてリヤワイパーが備わり、メーターナセルには速度計の左に回転計が収まったホンダ車らしい軽快なスポーティモデルだった。また、翌年5月には独走的なオートマティックである2ペダルのホンダマチックが追加となる。
この段階でシビックの価格は最上級のGL・2ドアが54.3万円、同3ドアが55.8万円、GLのAT仕様・2ドアが57.2万円だった。
エンジン横置きFFレイアウトの2BOX車は、独フォルクスワーゲンのゴルフが先鞭をつけて、グローバルなベンチマークとして有名だが、そのゴルフより2年も先にシビックは市販されたのである。
ところで小型登録車・シビックの開発と並行して本田技術研究所では、米環境対策法である通称「マスキー法」をクリアする低公害エンジン開発も進められていた。
マスキー法とは1963年、米国で制定された大気浄化法を上院議員エドムント・マスキーの提案で1970年に大幅に強化した法律だ。簡単にいえば自動車排出ガス中に含まれるCO(一酸化炭素)/HC(炭化水素)/NOx(窒素酸化物)をそれまでの10分の1に減らすべし、とした法律だ。米国ビッグスリーを筆頭に自動車各社から「技術的に不可能」との声が噴出していた。しかし、カリフォルニア州などがメーカーに1976年までに規制値クリアを求め、日本でも段階的に実施されることとなった。
このプロジェクトを先頭で推進したのは宗一郎だった。「低公害エンジン開発は、すべての企業が同じスタートラインにある。これほどのチャンスはない」とスタッフに檄を飛ばしたという。そして、触媒などの後付け装置を排除してエンジン単体で排ガスを浄化するというエンジン屋の意地を通した。
そして1972年10月に完成したのがCVCCエンジン(Compound Vortex Controlled Combustion System)、複合渦流調速燃焼式エンジンだった。
開発では、ホンダがいっぽうでこだわっていたモータースポーツ参戦で蓄積した燃料燃焼技術が活きた。CVCCの簡単な理屈は「F1エンジン開発でパワーを出すには、一度にたくさんの燃料を燃やせば良い。燃料と空気の混合気は濃いほどパワーが出る。そして低公害エンジンは混合気をできるだけ薄く(希釈燃焼)させれば良い」と考えた。つまりレーシングエンジンの逆をやればいい、という発想だったのである。
完成したCVCCエンジンは早速シビックにテスト搭載。米国に運んで環境保護庁(EPA)のテストを受け、見事合格。CVCCはマスキー法をクリアした世界初、第1号のエンジンとなった。そして1973年12月、このエンジンを積んだシビックCVCCを発売する。搭載した1488cc・直列4気筒SOHCは63ps/5000rpm、10.5kg.m/3300rpmの出力&トルクを発揮していた。同時にこのモデルはホイールベースを80mm延長した4ドアモデルとして登場した。
環境対応モデルとして脚光を浴びるシビックだが、旧来のホンダファンは、せっかくの高水準のハンドリング・旋回性能を持ったシビックに“スポーツ”を感じさせるモデルを望んだ。その声に応える恰好でホンダが1974年10月に「1200RS」を発表する。RSはロードセーリングの略称で、ツインキャブで武装した76ps/6000rpmとしたエンジンに、5速MTを組み合わせ、大径13インチタイヤを装着したモデルである。しかし、10カ月後の1975年8月にシビックは排気ガス規制をクリアするため全車CVCCエンジンに切り替えられ、スポーツグレードの1200RSは廃止、きわめて短命に終わるのだった。
ところで、シビックCVCCが発売された1973年はホンダ創業25周年で、10月に開催した記念式典で、ホンダを先頭に立って引っ張ってきた本田宗一郎、藤澤武夫の社長と副社長のふたりが、そろって退任を表明。その後、語り継がれ、ホンダの伝統となる経営トップの「良き引き際」が始まったのだった。
──敬称略──
この記事へのコメントはありません。