1933年(昭和8年)、日本の財閥系中堅企業であった日本産業と戸畑鋳物が出資して自動車製造株式会社が設立され、翌年に社名を日産自動車に改称したのが、この大企業の始まりだ。社名の由来は日本産業を縮めただけだが、実質的な母体はダットサンの生産を行っていたダット自動車製造を傘下に持つ戸畑鋳物だった。
■鮎川コンツェルン傘下の戸畑鋳物が目論んだ自動車
戸畑鋳物の自動車部門、ダット自動車の生産車は、ダットの息子(クルマ)を称してダットソンから“ダットサン”に転じた商品名が与えられた。明治期からの財閥系・鮎川コンツェルン傘下にあった戸畑鋳物は、1928年(昭和3年)ごろから自動車部品の製造を始めフォードやGMの日本法人へ部品を供給し、1930年代にDATSUN(ダットサン)を発売していた。戸畑鋳物・社長の鮎川義介は、自動車産業の将来性に着目し、本格的に自動車業界に進出する機会を探っていたようだ。
冒頭で述べたように1933年12月に創業した自動車製造株式会社は、日本産業が600万円、戸畑鋳物が400万円を出資した企業だ。鮎川義介が社長に就任し、翌年、日産自動車に改称。横浜に大規模工場を建設し、発売したダットサンは、500ccサイドバルブエンジンを搭載した“豆自動車”として人気者となる。エンジンは後に運転免許が要らない750cc未満ギリギリにま拡大した747ccエンジンに進化する。かつて、銀座の旧・日産本社別館(新橋演舞場ビル)1Fに展示されていたモデルは、そのなかの1台である。
1936年には横浜工場でダットサンを6163台生産し、翌年には大型車(ニッサン車)の並行生産を行いながら、ダットサン車だけで8353台という生産を記録した。そして、横浜工場開設わずか2年にして、乗用車とトラック合わせてダットサン車生産1万台を突破、1937年4月に祝賀式が開かれている。
■「ミス・フェアレディ」を彷彿とさせる販促活動
ダットサンの生産が急速な伸びを示すなか、販売拡充にも努めたという。積極的な販売促進の方策としてサービス学校の開設や広報PR誌『ニッサングラフ』の創刊、各販売会社でのドライブ講習会などのイベントも積極化した。なかでも富裕層主婦を中心とした女性の自動車愛好家への啓蒙を目的に発足させた斬新な「ダットサン・デモンストレーター制度」の注目度は高かったという。数百人の応募者から選ばれた女性4名のデモンストレーターが、ダットサン車のイベントや宣伝の第一線で活躍したのだ。ほぼ、現在の日産グローバル本社ショールームの「ミス・フェアレディ」に相当する販促活動が既に実施されたのだった。
日産の投資と販促は成功した。しかし、ダットサン車の生産が急速に伸長したのには訳がある。1936年、時の帝国政府は「国防の整備および産業の発展をはかる」ため『自動車製造事業法』を公布・施行した。これは、年間3000台以上のクルマを製造するには、政府の許可が要ることと、許可する会社は日本法人に限るとした法律だった。許可された法人には、国が資金や税制、設備輸入などで強力に支援する。反面、認可されない企業は過去の実績以上の生産を認めないという内容だった。そのため日本進出を進めていたフォードやGMなど海外勢の競争力が衰えたのだ。当初、許可企業となったのは、日産自動車と豊田自動織機製作所(後のトヨタ自動車)だけで、遅れて東京瓦斯電気工業が母体の東京自動車工業(同:いすゞ自動車)が加わり、この3社が戦前の国産車生産を担うのである。
■岸信介の「自動車製造事業法」が米自動車を駆逐する
日本の産業保護政策を進める商工省の官僚で、戦後日本の政治を率いる一人となる岸信介が発案した自動車製造事業法は、その後の日本の自動車産業育成に、かなり強引にその役割を遂行することに成功した。日本に進出していた米フォードとGMの両社は、過去の実績に縛られたうえに、日中戦争の影響で円相場が急落したことも手伝って米国からの輸入車が高騰、1940年に事実上、日本市場から撤退する。その結果、GMシボレー系の販売網をトヨタ自動車がほぼ引き継いで、販売・点検・整備組織を確立したことは有名な話だ。
自動車製造事業法は、米国製乗用車に比肩できる大型車の量産を行なうことにあった。そこで日産も1935年に大型車「ニッサン車」製造に乗り出すことを決定。早速、米国の自動車メーカーであるグラハムページ社の技術協力得て、横浜工場に設備を導入。1937年3月に乗用車2台とトラック用シャシーを完成させた。
そして1938年5月、ニッサン車の販売を開始することを決定。5月末の4日間、東京・大手町2丁目に特設会場を建て、ニッサン車32台、ダットサン車18台を陳列する発表会を開催した。期間中の一般来場客は延べ5万人に達し成功裏に終えたという。展示したニッサン車セダン標準車の価格は4000円だった。
■日中戦争に端を発する戦時統制下の自動車製造
ところが、その頃大陸では日中戦争が始まっていた。産業界に戦時統制が強まる。自動車製造の鉄鋼などの資材の制限、燃料の規制が始まるのだ。1938年8月、商工省はまずトヨタ自動車に対して“自動車生産は原則として貨物自動車に限る”との通達が出され、これを機に自動車各社はトラック製造が中心となり、乗用車は軍が使用するために注文したクルマだけしか生産が許可されない時代となった。まさに戦時体制への突入である。しかし、1941年に日産車(180型トラック)の増産命令により、生産1万9688台/年と戦前における最高を記録した。
しかし、以降終戦まで技術者・資材・動力(電力)が不足して、日産だけでなく国内自動車生産は逓減する。
1943年9月、太平洋戦争の行方が暗澹とし始め、政府は戦時体制をさらに強化する。軍需産業を一元的に管理統制する目的で、企画院とともに商工省を廃止して軍需省とし、日産を含めた150社あまりの企業に軍需会社の指定を発令した。これによって資材などが重点的に投入されるが、人員の不足は目を覆うばかりだったという。しかし、日産は1944年4月に神奈川県厚木に新工場建設を実施した。
1945年5月にドイツが全面降伏し、日本は孤立。6月に沖縄が陥落し、その後ポツダム宣言を受諾して8月15日を迎えた。──敬称略──