Hundreds Cars

第5章 押し寄せる業界再編、第Ⅲ世代スカイラインGT、GT-R、そして日産

 純レーサーのR380はⅡ、Ⅱ改、381、382と進化して日産ワークスの旗艦としてライバル、トヨタ7と覇権を競う。1968年秋の東京モーターショーで、「初代R380のエンジンを搭載したスカイライン」と喧伝された日産スカイライン最強マシン、GT-Rが登場する。

スカイライン2000 GT-R

 日産スカイライン誕生の前段として、1966年8月にプリンス自動車は日産自動車に吸収という恰好で合併される。公式なプレス発表は6月1日だった。

 ホンダの本田宗一郎社長が猛烈な抵抗を示したと伝わる“特定産業振興法”、いわゆる特振法が1964年に廃案となった後も、当時の通産官僚の多くは「日本の自動車メーカーは数が多すぎる。行政指導による業界再編が国際競争を勝ち抜く必須条件」と考えていた。

 プリンスと日産の統合も、そうした背景があって起きた合併劇だ。乗用車生産で3位と2位の統合は自動車業界だけでなく、日本の戦後産業史に残る大きな出来事だったといえる。

 6月の合併調印に至る経緯について諸々噂はあるが、ブリヂストンとプリンスの会長だった当事者の石橋正二郎は黙して多くを語っていない。プリンスは日産との交渉以前に、東洋工業やトヨタ自動車とも接触していたのは間違いない。日産との交渉は当時の通産大臣である桜内義雄が仕切ったと云われる。

■プリンス+日産の合併で進む合理化の行き先

 この合併で人的交流は進んだ。が、プリンスは日産のひとつの事業部として生産・販売する従来どおりの体制が維持された。設計や実験などの部隊も特段の異動なども多くなく、荻窪で仕事を続けた。しかし、合理化策はジワジワと押し寄せる。部品の共有化などが図られ、それぞれ開発者レベルの会議が続いたという。開発における共有化の方向性の影響は決して小さくはなかった。また、日産は当時から官僚的な風土があり、大卒と高卒では明らかな身分差があった。職人を大事にする伝統が生きるプリンスとは大きな違いだ。役職名で呼ぶ日産と名前で呼び合うプリンスという構図である。

 合併で大きな影響を受けたのが、以前から開発が進んでいた3代目グロリアの開発計画だ。プリンスでは車両企画の段階から生産と販売が共同で「企画委員会」を組織して、販売現場からユーザーの声を汲み上げる方式を採り入れ、プリンスとして初の手法で開発が進んでいた。しかし、皮肉にも企画委員会そのものが、合併でゼロベースに見直された。

 結果、先代モデルよりも手堅く保守的な構造で、スタイルこそプリンス・ロイヤルのイメージだったものの、サスペンションなどはリアがリーフリジッドに、エンジンも日産製H20型4気筒になるなど、凡庸なクルマとなった。

 その後、1971年にグロリアは、日産セドリックの兄弟車として統合され、名前だけを残して開発もプリンスの手を離れた。

■残されたプリンスの原点「スカイライン」

 プリンスオリジナルで、旧プリンス・荻窪開発陣に残された存在はスカイラインだけとなった。しかし、噂の域を出ないが、日産としては生産設備として、グロリアが外れた村山工場の利用が目的であり、現実に村山のラインでは、初代ローレルが生産された。そして、日産経営陣は、スカイラインに大きな期待などしていなかったと云われる。継子(ままこ)扱いだったというわけだ。本家・日産にはファミリーカーとして看板娘である“幸せの青い鳥”こと「ブルーバード」があったからだ。

 その3代目となるC10型系スカイラインの開発主任は櫻井慎一郎が就いた。純レーシングモデル、プリンスR380の開発・改良を同時に進行する敏腕ぶりを発揮する。

 合併の影響は当然、新型車開発についてもおよんだが、先に述べたとおり日産サイドは熱心さに欠けていたようだ。そのため荻窪は、比較的自由に設計に没頭できた。

 それまでおもにスカイラインのシャシー設計を行なってきた櫻井は、C10系のサスペンションは四輪独立式とすると決めていた。トヨタや日産などはもちろん欧州車でもファミリーサルーンに四輪独立懸架を採用する例は稀で、BMWの一部が使っていたに過ぎない。ところが、日産との打ち合わせのなかで、次世代510型ブルーバードが同じ仕様の独立サスペンション採用を目指していることが分かった。しかも、前マクファーソンストラット式、後セミトレーリングアーム式と形式まで一緒であった。ファミリーカーで国産初の四輪独立懸架式を謳うべき優先順位は当然のごとく決まった。

 日産側との打ち合わせは、おもに部品の共有化によるコスト削減にあった。この方針で、櫻井を驚かせ、落胆させたのは、予定していたプリンスのG7型直列6気筒エンジンの使用が認められず、意図していなかった日産のL型6気筒エンジンとする決定だった。合併による規格統一化を計るため厳しい条件が示された、その始まりである。しかし、そのなかで櫻井らは精一杯プリンスらしい個性をスカイラインに内包させるべく努力を惜しまなかったという。

 1968年秋、C10系スカイラインはデビューした。先代のS50系を引き継ぐG15型の1.5リッター4気筒搭載車とS54型の後継として日産L型6気筒エンジン搭載の2000GTがラインアップされる。ロングノーズの54型スカGを継承する“青いGTエンブレム”を付けた2000GTのL20型エンジンは1998cc直列6気筒SOHCで105ps/5200rpm、16.0kg.m/3600rpmを発揮した。

 しかし、往年のGT-Bファンからは落胆の声が洩れる。3基のウェーバーが燃料を供給して、あのポルシェ904と戦ったGT-Bに該当するレーサーライクでホットな“スカG”が無かったからだ。スカイライン・ファンから、GT-Bの復活を望む声が日産プリンス店に押し寄せる。

 C10系スカイラインは、日産経営陣の予想を大きく超える人気だった。さらにGT-B復活への熱いラブコールの殺到である。

■スカイラインの旗艦、GT-Rの誕生

 そのラブコールに応える回答が打ち出される。1968年10月26日に開幕した第15回東京モーターショーの日産ブースに「R380のエンジンを搭載したスカイラインGT」が誇らしくも飾られ、人々の熱い視線を浴びたのだった。

 そのスカイラインGT-Rに搭載するエンジンは、R380の直列6気筒DOHC24バルブと同じボア×ストローク82.0×62.8mm、1989ccのキャパシティから、最高出力160ps/7000rpm、18.0kg.m/6800rpmの高出力&大トルクを発揮する本格派スポーツユニット「S20型」である。

 日産はトヨタと異なり、フェアレディなどのスポーツカーはともかく、それまでDOHCユニットなどつくったことはない。S20型は日産“プリンス”の技術力をアピールする広告塔の役割を果たした。

 市販車GT-Rは1969年2月発売、当初4ドアセダンのPGC10型だけでスタート。その諸元は、ボディ寸法が全長×全幅×全高4395×1610×1385mm、ホイールベース2640mmで現在の日産の旗艦EVである日産リーフよりも、セダンでありながら50mm短く、160mmも狭く、165mmも低い。価格は150.0万円だった。

 1970年、ハンドリング性能アップ、回頭性を引き上げる目的で、ホイールベースを短縮した2ドア・ハードトップにボディを換装したKPGC10型GT-Rが登場する。ボディは全長×全幅×全高4330×1665×1370mm。ホイールベースはセダン比70mmも短縮した2570mmとなる。

 GT-RのHT化と同時に、2ドアHTに豪華な装備でL20型をツインキャブレターで武装した130ps仕様のエンジンを積んだ上級バージョン「GT-X」を追加発売。総生産台数1945台の少数精鋭のイメージリーダー“GT-R”に牽引されセダンGT-Xも追加され、GT-Xは高級パーソナルカーとして人気を博した。

 日産も予期しなかった我が国を代表する小型車に育った大ヒット作、C10系スカイラインは、1972年9月にモデルチェンジする。有名な“ケンとメリーのスカイライン”KGC110型系の登場だ。

 遅れて1973年、HTモデルにKPGC110型のGT-Rが加わる。S20型エンジンを搭載する最後のGT-Rだ。4ドア6気筒版が高級ファミリーセダンとしてボディを拡大したのに伴い、HTのGT-Rも全長×全幅×全高4460×1695×1380mm、ホイールベース2610mmに拡大。生産台数は僅かに197台だった。しかし、ケンメリ版スカイラインGTは、70年代に低迷した日産を救い、日産車で唯一トヨタ・マークⅡと競争し得る、高級パーソナルカーのベストセラーモデルとなる。以降、スカイラインは日産の屋台骨を支える重要なモデルとなる。

 ただし以降、1989年にR32型スカイラインにGT-Rが復活・登場するまで、“GT-R”は永きにわたって姿を消すのだった。