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第3章「プリンスロイヤル」という名の御料車は国産初の本格派

 第2回日本GPで“スカG伝説”の第1章を記したプリンス自動車は、業界再編の波に飲み込まれ、1966年8月に日産自動車に買収・合併される。その合併前にプリンス社内で進んでいたのが、天皇陛下が利用なさる“御料車”の開発・生産であり、初の国産化計画だ。

 御料車は天皇陛下および皇族の方々が利用なさるための車両で、多くはリムジンという名の大型の乗用車だ。1912年(大正元年)より前は、御料車として馬車が用いられていたが、現在では公式行事の際に馬車と自動車の両方が使われており、両車両ともに宮内庁車馬課が管理・運行を担当する。

 日本皇室で初めて自動車が公式に用いられたのは、大正天皇の時代だ。1910年(明治43年)に当時の宮内省は、御料車に自動車導入の方針を決定。それに先だって、欧州皇室・王室の自動車使用状況を視察・調査のため、ホテルオークラなどを創設した大倉財閥の2代目総帥・大倉喜七(後の喜七郎男爵)を団長とする調査団を派遣した。

欧州の名車が居ならぶ、戦前の御料車たち

 大倉たち調査団は、英デイムラー、独メルセデス、伊フィアットなどを訪ねた結果、初代御料車として選ばれたのは、英国製1912年型の6気筒ダブル・スリーブバルブ・エンジンのデイムラー2台だった。1号車はもっとも大型の57.2HP・7人乗りリムジンで、英国キング・ジョージ5世のお召し車と同じだった。2号車は38.4HP7人乗りランドレーだ。英国車が選ばれたのは、日本皇室の英国王室への敬意と親近感を大倉男爵が勘案したものだろうとされている。

 初代御料車の導入と同時に宮内省主馬寮に自動車部が設置され、1912年(大正元年)から大正天皇が利用された。しかし御料車としての自動車は、まだ脇役に過ぎず、公式には概ね馬車が利用された。天皇がお乗りになる車は宮内省用語で「鹵簿(ろぼ)」と呼ぶというが、あくまで公式鹵簿は馬車だった。自動車の御料車が戦後の1960年頃まで“略式鹵簿”と呼ばれていたのは、このためだった。

 以降、自動車の御料車は2代目1920年式「ロールス・ロイス40/50HPシルバーゴースト」(1921年~1936年)、次いで3代目「メルセデス・ベンツ770グローサー」(1932年~1968年)7台である。

 このヒットラーも愛用したと伝わる770グローサー・メルセデスは、当時ブランドの頂点に立つ最上級モデルで、直列8気筒OHV・7665ccエンジンを3759mmという長大なホイールベースのシャシーに積んでいた。皇室御料車のボディはメルセデスのジンデルフィンゲン工場で作られたブルマン・リムジンだった。ただ、コンパートメントの内装&シートは西陣織が貼られた特製だ。このグローサー・メルセデスの御料車は昭和天皇をお乗せになり、戦後の天皇陛下全国巡幸まで活躍する。

 終戦後、4代目は戦勝国米国製の「キャデラック75リムジン」(1951年~1961年)となり、1967年に5代目として初の国産御料車「ニッサン・プリンスロイヤル」(~2004年)が誕生するのだ。

 プリンスロイヤルは、1966年の東京モーターショーに出展され、初めて世間に公開された。日産自動車による吸収・合併後の翌1967年2月以降、6台の車両が順次、宮内庁に納入される。なお、1970年に開催された大阪万国博覧会に来訪する海外からの貴賓を送迎するため。急遽2台が製造され外務省に納入されている。

プリンスロイヤルの車両概要

 プリンスロイヤルの開発担当主任は、軽自動車フライングフェザーを開発生産した住之江製作所からプリンス自動車に入社した新世代のプリンス技官で、当時の設計部次長・増田忠だった。幼年期よりバイオリンを学び、ジャック・ペランなどに師事した本格派バイオリニストの慶応ボーイでもある。モノづくりにおいても職人的技法と幻術的センスを持ち合わせた若き技術者だったといわれる。

 開発設計は1965年9月に始まった。仕様の決定にあたって開発陣は宮内庁車馬課と何度も打ち合わせ、具体的な使われ方を調べることからはじまったという。デザインは華美になるのを避け、それまでの英国やドイツの高級車とは異なった和風建築をイメージに掲げたという。重要なのは何よりも安全性と信頼性で、実績経験のある保守的とも云える構造・技術を駆使し、実験的な技術への挑戦はことごとく廃した。

 室内、なかでも後部ドアのキャビンには、侍従や女官が腰掛ける補助椅子を設けるためと、正装する場合には冠を着用することもあるので室内の広さと高さが必要だった。そのため想定したボディは全長6300mm×全幅2100mm×全高1800mm、ホイールベース3900mmと現在のミニバン並みの高さ、長さと幅は現在の2トントラック・ワイドロング版以上のボディを持った非常に大柄な体躯となった。

 車両構造はラダーにX型構造を組み合わせたフレームシャシーに、フロントサスペンションがダブルウイッシュボーン式、リア側がリーフスプリングによるリジッドと手堅くまとめた。ステアリングはパワーアシスト付きのリサーキュレーティング・ボール式だ。

 搭載エンジンは夏のパレードなどで4~6km/hほどの超低速走行を1時間以上走行する場合でもオーバーヒートせず、十分な加速性能と高速性能も持ち合わせたエンジンが必須とされた。そのため完全な新設計エンジンながら、信頼性が高くトルクに余裕があり、静粛性の高さはもちろん、回転ムラが無く安定した低速性能が必須条件とされた。そして出来が立ったのが6373cc・V型8気筒OHVエンジンで、260ps/4000rpm、52.0kg.m/2400rpmという低回転域のトルクが重視されたユニットとなった。

 そのほかのメカも極力トラブルフリーを目指してつくられた。ブレーキは2系統とし、ひとつが作動しない状況になっても制動に影響が出ない構造とした。電気系統の配線や端子、スイッチ類の接点なども高レベル品質部品を要求。バッテリーもメインとサブのふたつを積み、燃料系も4個の電磁ポンプ圧送循環式として燃料が途切れることの無いように設計した。

 と、プリンスロイヤルはここまでのメカは純国産だったが、自動変速機(AT)の開発だけは、間に合いそうもない。そこで選ばれたのが大排気量エンジンの太いトルクに耐え得る米自動車メーカーGM製のスーパー・タービン3速ATシステムだった。これには、GMとの太いパイプを持っていた輸入車代理店ヤナセの社長・梁瀬次郎に協力を仰いだと、開発陣の増田忠の手記に残っている。

 試作車は1966年7月に完成した。出来上がったリムジンのサイズは全長6155mm×全幅2100mm×全高1770mm。普通の車の走行テストに加えて御料車として先導車が付く低速長時間走行や太鼓橋を越える走りなども再現されたという。これについて先出の増田手記に逸話が残っている。

「実験車ができて連日、村山のテストコースで試験走行がはじまった。周回路では緊急時の走行を想定して時速100マイル(160km/h)でブッ飛ばして周回するテストが何度も行なわれた。また、重量3.2トンというこのクルマが、SS・1/4マイル加速(0-400m加速)で20秒を切るという極限性能テストをやっている。いっぽう、フィールドの助走路では、もう1台の実験車に運転者ひとりが乗って、すすきの原っぱのなかで静々と、そして長々とハンドルを握っているのだ。すすきの揺れる様(さま)をあたかも歓迎の日の丸小旗の群れとして、幻(まぼろし)のように見ながら走らせる。この倦怠感も、なみなみならぬものであった」と記されている。

 もちろん御料車としての品格を保った運転をするには、ブレーキの使い方などに微妙なテクニックもあったようであり、鉄道で運ばれることも想定した装備なども用意されたという。こうしたテストでは異なる仕様の部品を使い、データの良い方のパーツを使い、あらゆる場面で問題が出ないよう工夫された。

 記録では実験車を貨車に積載して幌でカバーする際にルーフが大きく凹んだ。クルマを貨車に積載してカバーを掛けるときに、宮内庁の職員がこれまでどおり畳んだ幌をルーフ中央にドサッと置くのだが、そのショックに屋根が耐えられなかったのだった。急遽、ルーフの補強策が採られたという。

 前述したように開発コード「S390P型」プリンスロイヤルは、開発途中でプリンスが日産に吸収合併され、1966年に初めて世間に公開された。翌1967年2月以降、型式・A70型「ニッサン・プリンスロイヤル」として6台が宮内庁に納入される。以降、2004年にトヨタ・センチュリーロイヤルにバトンを渡し、その役目を終えるまで、行き届いたメンテナンスもあって37年間、1台のリタイヤもなく走り続けた。これはプリンス自動車の開発および工作技術レベルの高さを示すものと云えるだろう。──敬称略──

『国産初のリアル・レーシングカー“R380”』へ続く