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日本のサーキット変遷史Vo.1~鈴鹿サーキット編~

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1962年に開業した鈴鹿サーキットは、世界中のだれもが知るモータースポーツの聖地である。「F1日本グランプリ」や「鈴鹿8時間耐久」といった数々の国際レースを行ってきた鈴鹿サーキットは世界中のトップレーサー達も指折りのベストコースとして名前を挙げるほどだ。今回は、そんな鈴鹿サーキットの歴史と伝統、繰り広げられた名勝負について紹介する。

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自動車の未来を作るため

冒頭述べたように、1962年にオープンした鈴鹿サーキットであるが、日本国内でモータリゼーションの高まりを受けそれ以前からレースを行っていた場所があった。その内の1つが1955年より群馬県・浅間山山麓で開催されていた、「全日本オートバイ耐久ロードレース」だ。終戦より10年後の日本には、すでに猛るエンジン音と吹き上がるオイルの甘い香りに魅せられた人々が存在していたのである。

しかしながら、浅間山の山麓で完璧に舗装されている道路があるはずもなく、レーサーは火山灰が降り積もったダートコースを走っていたのだ。

ちょうどこの頃、世界中で高速・高性能車が相次いで誕生。

ヨーロッパを視察し、現地で行われているモータースポーツとサーキットを目の当たりにした本田技研工業株式会社の本田宗一郎氏は、日本国内においてのサーキットの必要性を痛感。帰国後、サーキットの建設に着手する。時は1959年末、「俺はレースをやるところが欲しいんだ。車はレースをやらなくては良くならない」本田宗一郎、鶴の一声であった。

本田宗一郎の想いが生み出した特徴的なレイアウト

当然のことながら、当時の日本国内に大規模なサーキットはない。そのため、欧州のサーキットの情報を分析した結果、最低でも1周6キロ、20~30万坪の広さが必要だとの結論に達する。

候補地については全国で数カ所挙げられ、現地に出向いての検討が行われた。候補地の中、やり玉に上がったのが鈴鹿市だ。元々、鈴鹿製作所の建設予定地視察の同じメンバーでの対応が可能で、航空測量も既に終了。データは充分だったのだ。提出されたコース計画案は、浄土池という調整池の周囲を走る水田が広がる場所を開いたコース。

しかし、本田宗一郎氏はそれをよしとせず。「水田を潰してはいけない」と、山林を切り開く現在の場所を指定。コースレイアウトが完成したのは1960年の8月。同年12月にはプロジェクトのメンバーがヨーロッパに飛んで、設備や運営方法のノウハウを調査。レイアウトの最終決定がなされた後、着工する運びとなった。

そうして、1962年にオープンした鈴鹿サーキット(国際レーシングコース)は、水田地帯をを避けて、2コーナーで折り返した後に山間部を縫って走り、スプーンカーブを経由して立体交差を抜けてホームストレートに帰ってくる。起伏に富む個性的な形状をしたサーキットとして完成し、F1が走ることができるコースで立体交差があるのはフェラーリのテストコースと鈴鹿サーキットだけだ。

プリンス スカイラインがポルシェと演じた死闘

鈴鹿サーキット、ひいては自動車史に刻まれる名勝負といえば、オープンから2年後の1964年に開催された第2回日本グランプリであろう。主役は初代プリンス・スカイライン2000GTである。

このレースは日本初となる国際公認のレースだった。そのため、紳士協定として「チームの編成」と「出場車に改造をしない」という2点がメーカー間で結ばれていたのである。

しかし、これを守ったのはプリンスのみ。当然のようにプリンスは破れてしまう。当時、プリンスのスカイラインは、技術的にもメカニズム的にも一定の評価を受けていた。それに胡坐をかいた慢心もあったのかもしれない。

その上での敗北だった。プリンスのメカニック陣には忸怩たる想いがあったのだろう。そこで、プリンスは第2回大会、特に花形であった「GT-Ⅱクラス」の優勝に向けて粛々と用意を始めたのである。

紆余曲折を経て完成したのが、新開発の直6エンジンを搭載した「怪物」S54型スカイライン2000GTである。スカイラインの勝利を、誰も信じて疑わなかった。

だが、レース開催直前、業界内に激震が走る。なんと、当時世界最速の呼び声高かったポルシェ904GTSが参戦を表明。最高出力180PS、最高速度260km/hに達するこのマシンは、スカイライン2000GTでも太刀打ちできない高性能モデルだったのだ。

そのままポルシェ904GTSの独壇場かと思われたレースであったが、蓋を開けてみれば予選レースでポルシェがクラッシュ。なんとか決勝に進んだものの、本来の性能を発揮できずにスカイラインに追い立てられる展開に。

レースは佳境の6週目。遂に、スカイラインがポルシェを抜いて先頭に立った。メインスタンドには、ポルシェを引っ張るような形でスカイラインが現れる。その姿に10万人を超える観客は大声援を贈った。その後、惜しくもスカイラインはポルシェに抜き返され、そのままポルシェ904GTSが第2回日本グランプリの勝者となった。

それでも、この日は「スカイラインの日」だった。世界最速のポルシェを相手に、一度はトップにたった勇者の姿を、日本人は己に重ね合わせて見ていたに違いない。

このレース終了後、販売に影を落としていたスカイライン人気は再沸騰。限定生産の2000GTも即刻売り切れ、カタログモデルとして売られるまでになった。

多くの名勝負が生まれた鈴鹿。その長い歴史の中で、最も熱いヒストリーと言われているのがスカイライン2000GTSとポルシェ904GTSが演じた死闘なのだ。

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ホンダのお膝元である鈴鹿サーキットは、その長い歴史に多くの情熱と歴史を刻み込んだサーキットだ。これからも長きに渡り、鈴鹿だからこそ味わえる興奮をモータースポーツファンに届け続けてくれるはずだ。