戦後日産は、ダットサン・スポーツ「DC-3型」発表後、オースチン車のノックダウン生産に忙殺されるも、オースチンから学んだ技術は、その後にまったく新しいダットサン110型など、型式番号が3ケタの新型製品群の開発に成功する。1958年、東京・後楽園で開催された全日本自動車ショウで日産は、ダットサンスポーツS211型を発表する。
翌1959年、このS211型はダットサン・スポーツカーの名で発売となり、久しぶりのダットサン・スポーツの復活となった。このクルマは、前年のショーで展示されたプロトタイプとスタイルは似ていたが、メカニズムは進化していた。つまり、プロトタイプにベースとなったクルマはセダンのダットサン110型だったが、発売されたS211型ダットサン・スポーツは、モデルチェンジして大きく進化したセダン210型がベースとなり、エンジンをはじめとするコンポーネントがそっくり入れ替わっていたのだ。
このクルマの大きな特徴は、ダットサン・トラックのフレームシャシーに載ったボディだった。ガラス繊維強化プラスティックで成形した4シーター、2トーンカラーのボディが架装されていたのだ。しかし、生産は20台程で、試験的な生産型プロトといった存在だった。
■先の大戦で、米将校たちが欧州派遣され、ライトウエイトスポーツに目覚める
そのクルマは1960年に大幅に手が入れられ、SPL212型となる。S211型の特徴だったFRP製ボディは、基本的なフォルムを活かしたまま、オールスチール製に置き換わっていた。また、左ハンドル仕様の輸出モデルとして登場したのだ。その頃の日産経営陣は、豪華で大きく高品質なサルーンが溢れかえっている米国市場に、小さなスポーツカーを希求するニーズがあることを察知していたのだ。
第2次世界大戦の戦勝国で連合軍として欧州戦線に参戦した米軍は、戦後の治安維持のために欧州各国に駐留した。そこで、少しだけ裕福な米軍将校たちは、欧州メーカーのライトウエイトスポーツを操る愉しさを覚えてしまった。そして、帰還する将校の多くは、その小さなスポーツカーを米国に持ち帰ったのだった。それから10年、帰還する米将校と共に米国に渡った欧州製スポーツは、さすがにくたびれていた。そんなマーケットに日産は目を付け、SPL212型の主たるマーケットとして米国市場に照準を合わせたのだ。
■初代「フェアレデー」の誕生
そして相応しいモデル名が与えられた。“フェアレデー”である。ミュージカル『マイ・フェアレディ』がモチーフなのは云うまでもない名称を命名したのは、当時の日産社長である川又克二。日本語表記は、フェアレディではなく“フェアレデー”の表記だったことが時代を感じさせている。
型式番号は「S」がスポーツ、「P」がパワーアップバージョンであること、「L」がレフトハンダー(左ハンドル)を表していた。先頭数字の100の位の「2」はダットサンセダン210型の派生車であることから、それに揃えた型式となったという。
搭載エンジンは1189cc・直列4気筒OHVで43psを発揮。全長×全幅×全高は3936×1472×1407mm、ホイールベース2220mmの4座のコンバーチブルで、最高時速は125km/hとされた。SPL212型はマイナーチェンジでエンジンを55psまでスープアップしてSPL213型となり、ややボディを拡大して1962年まで生産された。生産台数は併せて500台あまりとされる。クルマとしての洗練度は欧州製ライトウエイトスポーツにおよばないものの、改良により米市場での競争力は着実に高まっていったという。輸出専用車ではあったが、日本でも僅かだが、左ハンドル仕様のまま販売されたという。
■P310型ブルーバードから生まれたSP310型「フェアレディ1500」
1961年10月に開催された第8回全日本自動車ショウで日産ブースに1台のスポーツカーのプロトタイプが飾られた。SP310型「ダットサン・フェアレディ1500」だ。
当時の日産の経営を支えていたのは、1959年にデビューした初代ダットサン・ブルーバードP310型セダンだ。フェアレディは、型式名からも分かるように、ブルーバードとの密接な関係が、ここから始まった。SP310型の「S」は、前述のとおりスポーツを表し、フェアレディはブルーバードのスポーツカーという意味なのだ。
故に1962年に登場した市販SP310型はP310型ブルーバードとの共通点は多い。おもにシャシー回りのメカニズムだ。シャシーの基本骨格はブルーバードのフレームをXメンバーで強化。サスペンションは前ウイッシュボーンコイル独立、後ルーフスプリングによるリジッドとして堅実にまとめられた。ボディサイズは全長×全幅×全高3910×1495×1300mm、ホイールベース2280mm。スタイリングも堅実なオープンモデルであり、運転席の後ろに横向きに着座するシートが備わった3人乗りだった。
搭載エンジンは、ブルーバードの1リッター&1.2リッターではなく、セドリック用の直列4気筒OHVで、ボア×ストローク84.0×74.0mm・1488ccのキャパシティから71psを得ていた。フロアシフトの4速マニュアルトランスミッションを介し、900kg少々の車重のフェアレディを最高時速150km/hまで導いたという。発売から半年後、完成したばかりの鈴鹿サーキットで開かれた第1回日本グランプリで、英国製スポーツのトライアンフTR4に大差をつけて優勝し、上々のスタートを切った。
1963年、SP310型は、エクスポートバージョンが装着していたSUツインキャブレター仕様を国内にも導入。パワーが80psにアップする。さらに翌1964年、特徴的だった3シーターの後席を廃し、オーソドックスな2座オープンとなった。
この1964年、ダットサン・クーペ1500プロトタイプが東京モーターショーで発表される。別項で詳報する初代シルビアである。市販車は1965年に1.6リッターエンジンを搭載してデビュー。
そのシルビアからさまざまなフィードバックがなされ、フェアレディはSP310型からSP311型に移行する。フェアレディ1600の登場だ。
新たにショートストローク型、90psのテンロクエンジンを得たSP311型は、フルシンクロのミッション、前輪にディスクブレーキを得るなどし、最高速度165km/hを達成、100マイルカーの仲間入りを果たす。
1967年3月、フェアレディに最強版の2リッターバージョンが加わる。SR311型「フェアレディ2000」の登場だ。ソレックスキャブレター2基を備えた新設計の1982cc・直列4気筒SOHC・U20型エンジンの出力は145ps/6000rpm、ポルシェシンクロ付き5速マニュアルトランスミッションを搭載。発表された0-400m加速15.4秒、最高速度205km/hとされ、国産初の200km/hオーバーカーの高性能車としても注目を浴びた。
このクルマ、SR311型がオープン・フェアレディとしての最終モデルである。オープンスポーツの貴婦人は、1969年に新型フェアレディZにバトンを渡し、1970年に生産を終え、その累計生産台数はSP310型が6906台、SP311型が2万7384台、SR311型が1万5006台、合計4万9296台という実績を残した。