ホンダの往年のレーシングマシンや市販車を管理保存するホンダコレクションホールは2020年10月7日、ツインリンクもてぎ南コースにて走行確認テストを行なった。
テストドライバーの宮城光氏のドライビングで、ホンダの第1期F1参戦時のマシンであるRA301を走行させた。
10分ほどの走行であったが、かつてのV12サウンドを力いっぱいとどろかせた。 動画ではテスト走行の様子を完全ノーカットでお届けする。
テスト走行終了後、エンジニアや関係者の談笑する姿を見ると、テストの結果は上々と言えそうだ。
ホンダ RA301の概要(本田技研工業株式会社公式ホームページより引用)
Hondaは第1期F1活動における2勝目をデビュー1戦目で挙げ、「殊勲のピンチヒッター」と呼ばれたRA300を1968年元日開催の開幕戦・南アフリカGPまで使用。当年シーズンの“本命”であるRA301は満を持して4カ月後の第2戦スペインGPにデビューした。
タイトルを狙うと宣言したジョン・サーティースをエースに2度の表彰台を獲得したが、シーズン途中からは空冷8気筒エンジンを積むRA302に開発の目と手が向けられたこともあり、高い戦闘力を維持することができず結果的に未勝利に終わっている。
そしてこの68年シーズン限りでHondaはF1活動を休止してしまうのである。
考えてみればまだ本来の要求性能に達していなかったRA300が、総合力で勝るロータス49フォードやブラバムBT24・レプコを相手に67年イタリアGPで優勝をもぎ取れたのはなぜか。コースが高速モンツァだったことによる部分は大きいだろう。
また見方によっては610kgの車重がありながら500kgのロータス・フォードと遜色なく走れたのは、エンジンが相当に強力だったからとも言えるだろう。
逆に言えば、Hondaのパワーをもってシャシーさえロータス並みの車重に仕上げられれば、圧倒的なグランプリカーになると考えるのは自然なことだ。
RA273の時代にヘビーウェイトに苦しめられたHondaが、RA300で築いたローラ・カーズとのコンタクトを活かすことで、彼らに“ローラマジック”を期待するのも無理からぬ話である。
そうして68年第2戦スペインGPに投入されたRA301は完全な新設計ながら随所にRA300との共通項をもち、製作には引き続きローラ・カーズが携わった。とにかく早急な実戦投入を要求されたRA300で実行できなかった対策要目を確実に具体化したモデルとして、期待の最強マシンとして送り出されたのだ。
少なくともスペックから見える完成度は、第1期F1マシン中でも群を抜く存在だった。 懸案だった車重は、モノコック部材をマグネシウム合金に変更したり構造部材の再検討を行なったりすることで530kgにまで軽減することに成功。RA273に対し120kg減、RA300に対しても60kg減という、大幅なダイエットだった。もちろんシャシーだけの対策ではなく、エンジンを全面的に見直した効果も大きかった。
エンジンはRA300で使われた3リッターV型12気筒のRA273E型をベースとし、新たにRA301E型を開発、投入した。吸排気の方向をバンク内側吸気/外側排気方式に改め、パワーテイクオフ方法や補機類の構成も改めた完全新設計とした。またV型6気筒を2基連結するこれまでの構造から片バンクを直列6気筒配置とする方式に変更。より高速回転に向く構造とし、最高出力も440psにまで引き上げられていた。
さらに空力時代の幕が開いた68年のF1でHondaも空力デバイスの開発競争に追随し、第4戦ベルギーGPではテールスポイラーを装着。本格的なウイングは第7戦イギリスGPから投入されたが、整流板を持つウイングをメインの支柱と補助ロッドで支える方式では剛性が足りずレース中に支柱が折れるトラブルも発生。第6戦フランスGPからは様々な形状のノーズフィンをトライ。最終戦メキシコGPでは先端の広いノーズフィンを装着。
カウリングには2カ所のエアアウトレットを設けた。 そうして残ったリザルトはサーティースが11戦して1回のポールポジションと2位、3位、5位をそれぞれ1度ずつ記録したものの残る8戦はすべてリタイアという、やや確率の低いレースを送った。年間ランキングではドライバーズ7位タイ(前年は4位タイ)、コンストラクターズ6位タイ(同4位タイ)という結果だった。
またRA302はシーズン中に2号車が出来上がり、スポット参戦でデイビッド・ホッブスとヨアキム・ボニエが1度ずつ走らせ、ボニエが最終戦メキシコGPで5位に入っている。 RA301はRA300までのマシンたちで生じてきていたネガ潰しに成功し、集大成と言えるマシンだった。
RA300に比べ、全体性能は確実に引き上げられていたと言える。しかしフォード・コスワースDFVエンジンが一般に広く供給されことで搭載車が増え、相対的な戦力は下がり気味であった。
期待された勝利を挙げることは叶わず、結果としてHondaの第1期F1活動の幕引きを担う1台となってしまうのだった。