日本の純国産乗用車、なかでも「国産スポーツカー」の名車といえば、このクルマをおいてほかに無い。「トヨタ2000GT」である。その日本初の本格派グランツーリスモ「トヨタ2000GT」が発売されたのは1967年、すでにデビュー50年超の稀有な名車である。
1965年10月1日、遂に自動車の貿易自由化が実施された。そして、10月30日に第12回東京モーターショーが開幕する。前年に東京オリンピックが開催され、高度経済成長の中休みといった雰囲気の経済状況のなか、高級乗用車として日産プレジデントをはじめ、新型セドリック、V8エンジンを搭載したトヨタ・クラウンエイトなど、自由化対抗車種といえそうな新型高級セダンが展示された。
また、前年の第2回日本GPで総合優勝をたった1台のポルシェ904にさらわれたプリンスは、その悔しさをバネに開発した国産初の本格レーシングカー「プリンスR380」、小型車でも国産初の前輪駆動車(FF)である「スバル1000」、ホンダの2座スポーツ「ホンダS800」などの新型車がみられた。
■1965年、東京モーターショーの華は「トヨタ2000GT」
しかし何といってもその年のショーの主役は、トヨタブースの中央に載った「トヨタ2000GT」プロトタイプだった。前年の1964年春、“2000GT”プロジェクトがスタートした。しかし、設計・製造にかかわったのは、詳細な記録は残されていないが、トヨタ・モータースポーツクラブ(TMSC)の監督だった河野二郎以下、トヨタの設計技術者と実験技術者合わせて僅かに6名、極めて少数だったと伝わる。
チームは夏までに基本的なクルマの構想を決めた。当時、トヨペット・クラウンが搭載していたM型・2リッター直列6気筒エンジンをDOHC化し、それをロングノーズ&ショートデッキ2座クーペボディに搭載するグランツーリスモというプロファイルとしたのだった。
そして開発パートナーとしてトヨタが手を結んだのがヤマハだ。当時、ヤマハは日産と秘密裏にスポーツカー開発計画を進行させていたが、そのプランが頓挫した。それが元で後日、トヨタ2000GTは「日産とヤマハが開発を進めていた“スポーツカー”がベース」だとする“噂”が流布する。しかしながら、これついては、トヨタとヤマハ両社ともに否定しており、「トヨタ2000GTの基本的な車両設計計画はトヨタの少数チーム主導で進み、具体的なエンジンDOHCヘッドへの換装&チューニングにヤマハの技術が用いられた」というのがほんとうのようだ。
■発売前のプロトで数々の記録達成するデモンストレーションを──67年、遂に発売
そして、翌1966年の日本グランプリで2000GTプロトタイプは3位入賞、同じくプロトタイプが鈴鹿1000km耐久で優勝を収めた2000GTは、その年の秋に谷田部テストコースで3つの世界記録と13にのぼるクラス記録を打ち立てた。スピードトライアルで打ち立てた世界記録は、72時間で1万5000kmを走った結果の平均時速206.04km/hだった。これは市販化に向けた絶好の、そして効果的なデモンストレーションとなった。
1967年5月、遂に「トヨタ2000GT」は正式に発売された。価格は238.0万円。当時のトヨタが持つ技術の“最高”を結集した結果、クラウン2台分以上という、これも“破格”といえるプライスタグが付けられた。
搭載エンジンは、ヤマハとの協働から生まれた3M型と呼ぶ2リッター直列6気筒DOHCエンジンである。気筒あたり2バルブながら、ボア×ストロークが75.0×75.0mmのスクエアな1988ccは、8.4の圧縮比にツインチョーク・ソレックスキャブレター3連装を得て、出力&トルクは当時の最高レベル、最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kg.m/5000rpmを発揮した。組み合わせたトランスミッションは、当時の量産国産車で極めて稀なショートストロークのフロアシフトによる5速マニュアルである。
シャシーはロータス・エランを参照したといわれる、前後がY字型に開いた頑丈なバックボーンフレームを採用。そのY字の前にエンジンを積み、後部にリアアクスルを持たせた。サスペンションはそのY字に取りつけられた前後共にダブルウイッシュボーン+コイルの堅牢な独立式。ブレーキは全輪ディスクで、リアデフはリミテッドスリップが組み込まれ、ホイールはプロトタイプのワイヤースポーク式からマグネシウム鋳造製となった。ステアリングシステムはトヨタ社初のラック&ピニオンでステアリングホイールは380mmφの小径で、当時のスポーツカーとして万全なスペックである。
高度なメカニズムが詰まったシャシーに載る流麗なボディは、車体中央をバックボーンフレームが貫通する。2名の乗員はその左右の低い位置で着座する。全長×全幅×全高4175×1600×1160mm、ホイールベース2330mm、車両重量1120kgのコンパクトで軽量なGTが誕生した。現在、トヨタのFRコンパクトスポーツの代表である「86」よりも65mm短く、175mmも狭く、125mmも低いのだった。
これらの諸元から2000GTは、最高速度220km/h、0-400m加速15.9秒、0-100km/h加速8.6秒と市販車として世界トップクラスの性能を誇ったのだ。
■ヤマハとの協働についてのいくつかの噂
トヨタ2000GTの大きな特徴は、その流麗なスタイリングだ。このエクステリアデザインを担当したのは、初代日産シルビアを担当したドイツ人デザイナー、アルブレヒト・フォン・ゲルツだと “噂”されたことがある。
背景に前述の秘密裏に進められた「日産とヤマハのスポーツカー共同開発」があったからだ。しかし、この噂も後年トヨタとヤマハによって全否定された。車両デザインはトヨタ社内デザイナー野崎喩とそのアシスタントで実験担当の四方洋が描いたというのが真相だ。
高級で快適なインテリアも高く評価された。前期モデルはウォールナット、後期型はローズウッドを採用した豪華なインパネとステアリングホイール。これは、「日本楽器」つまり楽器メーカーのヤマハが担当して実現した。エンジンを担当したヤマハ発動機は、日本楽器から分離独立した別会社だが、日本楽器と兄弟会社の関係にある。同社のピアノやギターなど楽器製造・木製加工技術が、2000GTのインテリアに活かされ、出来上がったのが2000GTのダッシュボート&センターコンソール周りの本物のウッドが張られた内装だったのだ。
トヨタ2000GTには、たった2台だけだのオープンモデルがある。1960年代に製作するごとにヒットを飛ばしていた米国映画会社ユナイテッドアーティスツの映画「007シリーズ」第5作は、日本が舞台となった。その「007は2度死ぬ」のためにつくられたボンドカーが「トヨタ2000GTコンバーティブル」だ。映画のための特装車としてトヨタサービスセンター(現在のテクノクラフト社)綱島工場が製作したモデルで、オープンボディに改造するためリアゲートを廃止し、新たにトランクとリアフェンダーを新設計した。
また、このモデルのホイールは標準のマグネシウム製ではなく、コンセプトプロトタイプと同じワイヤースポークホイールだった。このあたりにもモーターサイクル開発におけるヤマハの技術とノウハウが活きていたようだ。
なお、この映画への出演交渉のトヨタ側窓口となったのは、帰国子弟でトヨタワークスのレーシングドライバー、ファッションモデルとしても有名だった福澤幸雄だったといわれる。福澤幸雄は前項「第1章」で記したようにパブリカ・スポーツのCMにも出演、慶應義塾大学創設者である福澤諭吉の曽孫にあたる。
トヨタ公式記録による2000GTの累計生産台数は1970年に生産を終えるまで都合337台だったと極めて少なかったという。──敬称略──